施設にいた頃も、バレンタインの習慣はあった。といっても、恋愛絡みでチョコをもらったことはない。あそこはみんなが家族だったから、そういう感情を抱く相手はいなかったし、抱かれることもなかった。
少し違うけれど、お中元やお歳暮、クリスマスプレゼントのようなノリだったと思う。いつもお世話になってるお礼、という感じで、男子全般に義理チョコが配られる。そんなイベントだった。
昨年までは。
「……遅い、な」
ベッドの上でギターを抱えたまま、音也は転がっている目覚まし時計を見た。
短針は天辺近くを指し、長針も後数十分もすればそれと重なるところまで迫っている。こんな時間になっても、音也のルームメイトである一ノ瀬トキヤは帰ってきていない。
今日はいつもより少し遅くなりそうだとは聞いていたが、それにしても遅すぎやしないだろうか。いや、日付を越えて帰ってくることはそう稀ではない。
詳しい事情は知らないのだが、昼は学校、夕方から夜はアルバイト、という生活をトキヤはしている。日によって遅くなったり早かったりと一定ではないので、音也が眠った後に帰ってくる、ということは珍しくはなかった。
一度どんなバイトをしているのか訊いたことはあるのだが、その時トキヤはひどく困った顔をして黙り込んでしまい、いつか話してよね、と言うのが精一杯だった。
ただ知りたいと思っただけで、困らせたかったわけではない。今も本音を言えばやはり知りたいけれど、あんな困った、少し苦しそうな顔を見せられたら、もう訊けない。それに、いつか話せるときは来たら話すと、あの時トキヤは約束してくれた。関係ないとか、適当なバイトの名前を言って誤魔化すことだってできただろうに、トキヤはそうせず、いつか、と言ってくれた。
きっとそれすらも、口にするのは難しかっただろう。それでも、約束を違えたりはしない、責任感と誠意のある人の言葉だから、音也はトキヤを信じている。
「でも、遅い……」
しんとした部屋の中で、時を刻む針の音が小さく聞こえる。それを聞くのが嫌で、待つ時間を忘れようとギターを弾いていたのだが、それも限界だった。
今日中には帰ってこないかもしれない。
後少ししたら、帰ってくるかもしれない。
今まさに、寮の門をくぐったところかもしれない。
残り三十分を切る頃になると、そんな期待と不安が入れ替わり立ち替わり頭を占め、ギターを弾くどころではなくなってしまったのだ。
いつもなら、トキヤがいなくてもそろそろ寝ている時間だった。それなのにどうして起きているかと言えば、今日がバレンタインだからだ。恋人のいる、初めてのバレンタイン、だからだ。
けれど肝心の恋人は、未だ帰ってこない。
トキヤと恋人同士になったのは、昨年の秋だった。好きだと気付いたのはもっとずっと前で、今の関係に至るまでは思い返すと苦笑いがこみあげるくらい難航したものだ。けれど、数ヶ月を経てようやく恋人同士らしくなれた。
なれた、と思っているのは音也だけかもしれないが、それでも、二人だけの優しく甘い時間を過ごせている。ごくたまにだけど、トキヤも自分を好きだと意思表示してもくれる。
クリスマスだって、イブの日はデートに出かけ、夜はここで二人きりで過ごした。だからバレンタインも、と思っていたわけだが、今回ばかりは難しいかもしれない。
そもそも、とりたてて約束をしたわけではないのだ。今朝の会話といえば、
「今日はバレンタインだね!」
「……そうですね。あぁ、今日のバイトはいつもより遅くなりそうです。あまり夜更かしせず早めに寝るんですよ」
という、恋人同士というより親子のようなものだった。
約束どころか、早く寝ろとまで言われている。
多分トキヤは、音也ほどバレンタインを意識していないのだろう。一般的に、バレンタインは女子から男子へチョコレートをあげる日だ。片思いの子が告白する勇気を出せるイベントで、恋人がいるのなら、その想いを改めて伝える日でもある。でもそれなら、異性同性関係なく、恋人たちのイベントとして楽しんでもいいと音也は思う。いや、楽しみたい。本音はそこだ。
せっかくのイベントだから、大好きな人と思い切りラブラブに過ごしたいのだ。
とはいえ、あの様子では、トキヤはチョコレートなんて用意していないだろう。いや、それどころか、バイト先で女の子にたくさんもらっているかもしれない。
トキヤは顔もスタイルもかっこいいし、一見クールに見えて優しくて面倒見もいい。真面目すぎてやや冗談が通じないときもあるけどそこがまた可愛いくて、つまりモテる要素満載なのだ。
アイドルを目指しているのだから当然ではあるが、だがしかし、こうして自分が悶々としている中女の子からチョコレートをもらっていたりなんてしたら、ちょっとかなり……切ない。
「ダメダメそんなの絶対ダメ! トキヤは俺の恋人なんだから!」
「……夜中に何とんでもないこと叫んでるんですあなたは!」
勝手な想像だというのに堪らなくなって叫んでしまうと、ひきつった早口の声がそれに続いた。ずっと待ちこがれていた大好きな人の声に、音也は転がっていた体をがばっと起こす。
「トキヤ!」
「トキヤ、じゃありません。いくら部屋が防音とはいえなんてことを……」
「お帰りトキヤ! 遅かったね。でもよかった間に合って」
慌ててドアを後ろ手に閉め、トキヤは強ばった表情で音也を睨んだ。お説教モードではあるが、その頬はうっすら赤くなっている。怒りよりは照れが強いときの顔で、音也はその顔が可愛くて好きだった。
だから続く言葉を遮り、ぴょんとベッドから降りて満面の笑顔でトキヤを迎え入れる。トキヤの全身にはまだ外気の冷たさが残っていて、冬の空気の匂いがつんと鼻をついた。
「外寒かった? 手、すげー冷たい。そんな薄いコートしか持ってないからだよ。俺のダウン、今度貸してあげる」
「結構です。大体これは一応カシミヤ製で……。いえ、そんなことはいいです。離しなさい。あなたの手が冷えてしまう」
手袋をしていないトキヤの手は冷たく、音也は両手を包み込んでぎゅっと握った。はーっと息を吐きかけると、トキヤがやんわりと手を離そうとする。
「トキヤがあったまるなら、それでいいよ」
「……」
「ね、コート脱いで。くっついたらもっとあったかいから!」
にこっと笑い、音也はトキヤの手を引いて入り口から中へといざなった。何か言いたそうな顔をしつつも、トキヤは苦笑して音也に従う。
「寝ていなさいと言ったのに、またギターなんて弾いて起きてたんですか?」
「うん。だって、今日中にトキヤに渡したいものがあったから」
ベッドの上のギターを下ろしてから、音也は机の上に置いてあった小さな紙袋を手にすると自分のベッドに腰掛けた。少し首を傾げ、トキヤも音也の隣に座る。
「今日、バレンタインだろ?だから、俺からトキヤにチョコレート!」
「えっ……」
「あっ、トキヤまさかもう誰かからもらったりとかした?告られちゃったりとか、した?」
帰宅したトキヤの荷物にそれらしきものはなかったし、チョコの匂いもしなかった。だが、小さなものならコートのポケットにも鞄の中にも入る。まさかまさか、と勢い込んで問いつめると、トキヤは首を横に振った。
「いえ……もらってもいないし告白もされてませんが……」
「よかったー!これで誰かに先越されてたらどうしようかと思った」
はー、と胸を撫で下ろし、音也は改めて紙袋をトキヤへと差し出した。
「はいこれ。俺から愛のチョコ。受け取ってくれる……よね?」
「それはもちろん……ありがたくいただきますが……」
受け取りながらも、トキヤは僅かに表情を曇らせた。嬉しくないのか、少し困ったようなその顔に音也も不安になってくる。
常日頃からカロリーを気にして食事をしているトキヤにすれば、チョコレートなどもらっても困るのかもしれない。もちろんそれを加味した上で用意したのだが、それでも駄目だったのだろうか。
「トキヤ、嬉しくない?一応甘さ控えめにしてるし、コーヒー風味だから食べやすいと思うんだけど……」
「いえ、いいえ違います。嬉しい、です。とても……まさか、あなたがくれるなんて思いもしなかったし……」
しゅんとして見上げると、トキヤはさっきよりも大きく首を横に振った。頬を赤らめ、袋をぎゅっと握りながら「嬉しいです。ほんとうに」と繰り返す。
「でも、今ちょっと困った顔した」
「それは……違うんです。その……私があなたに渡せるものがなくて……だから……」
ひどく言いにくそうに目を伏せ、トキヤはその理由をあかしてくれた。なんだそんなことかと、音也は二度目になる安堵の息をつく。
「いいよそんなの。だって、これは俺がトキヤにあげたかったんだし。ほんとはちょっと……ううん。すごく欲しかったけどね」
「すみません……」
珍しく落ち込んだ風に、トキヤは俯いたまま謝る。喜んで欲しくてあげたのに、そんな顔をされたらこっちまで悲しくなると、音也はトキヤを覗き込んで笑った。
本心を言えば、やっぱり好きな子からチョコレートを貰いたかった。けれど、別にそれだけが好きの証というわけではない。
お帰りって言って、手を握って、こうしてぴったり寄り添って座っている。
こんなこと、恋人同士でなければ絶対にしない。チョコレートだって、受け取ったりしない。今この時間が、空間こそが好き合っている証拠だと、ちゃんとわかっている。ただ、イベントにかこつけてもっと仲良くしたいと思っていただけだ。
「いいってば。バレンタインって、女の子のイベントって感じじゃん? だからトキヤが気にすること……」
「そうじゃありません。違うんです」
「え?」
ぽんぽん、とトキヤの手を優しく撫でていた音也は、細く紡がれた言葉に顔を上げた。ちらりと音也を見てから、トキヤは目元を赤くしてまた俯く。そうして少し迷うように唇を引き結んでから、トキヤはそれを口にした。
「本当は……私も用意していたんです。あなたに渡すための、チョコを」
「嘘……」
衝撃の事実に、音也は思わずあんぐりと口を開けてそんなことを口走ってしまった。目をぱちぱちと何度もしばたたかせ、ええとええと、と今聞いた言葉を頭の中で繰り返す。
チョコレートが欲しい、なんて、自分は一度も言わなかった。いや、それに等しいアピールはしていたけれど、通じているとは思わなかったし、トキヤの態度だってそうだった。まあトキヤの性格を考えれば、例え用意していてもそうと悟られる態度は見せないだろう。それでも今までもらう立場にしかいなかっただろう彼が、自分のために用意していたと知ると、胸は一気に熱く甘く潤んだ。そんな音也とは裏腹に、トキヤはこの世の終わりのような表情で続ける。
「嘘ではありません。本当です。ですが……予期せぬハプニングというか……仕……バイト先で、どうしてもチョコレートが必要になって……」
「あー……そっか。そりゃ残念」
「すみません……」
詳しくは言えない事情があるのか、トキヤは途切れ途切れにチョコレートを渡せなくなった経緯を話してくれた。バイトが絡んでいるのなら、自分に事細かに説明するのは難しいだろう。それは仕方ない。そして、渡せなくなったその理由も、仕方ないと思えるものだった。それなのにまるで自分の失態というように謝るトキヤの手を、音也はぎゅっと上から握る。
「なんで? トキヤのせいじゃないじゃん。それに、ちゃんと用意してくれてたのが嬉しい。マジで嬉しい!」
「信じて……くれるんですか?」
「だってトキヤは嘘つかないから」
「――」
少し驚いたような顔で、トキヤは音也を見つめた。
用意をしていない言い訳だと、そう思うことも確かにできる。けれど、トキヤはそんな下手な嘘はつかない。とても誠実な人だと、自分は知っている。疑う理由も、必要もない。
「そりゃ、俺の知らない秘密はあるけどさ。でも、嘘はつかない。誤魔化そうとしない。俺そういうのわかるんだ。だから信じるよ」
「……ありがとう、ございます」
音也の言葉を噛みしめるように目を伏せ、トキヤは吐息と共にそう言った。心底ほっとした表情に、僅かに泣きそうなそれも混じっている。そんなに思い詰めることないのにと、音也は緩く微笑んだ。
トキヤのその真面目さと不器用なところが、とても可愛くて愛おしい。完璧主義で器用になんでもこなす人だけれど、恋愛においては少し違う。
無論トキヤ以上に、自分は足りない部分も欠けてる部分もあるだろう。でも、互いにそれを知って、補い合ったり時には奪って与えたり、そんなペースでいいんだと音也は思う。この時間を、空気を、想いを、大事にしていきたい。
「ね、それ開けてみて。結構頑張ったんだ!」
「頑張った?そういえば、さっき甘さ控えめにした、とか……」
トキヤが心から喜べなかった理由も事情も明かされ、ちょっとちぐはぐだった心ももうぴったりと寄り添った。それならイベントを続行すべしと、音也はトキヤを促す。
音也の言葉にやや眉をひそめつつ、トキヤは紙袋を開けると中をのぞき込んだ。次いで、大きく目を見開く。
「これ、手作り……」
「うん。コーヒーチョコのトリュフ。トキヤの好みに合わせて今日の放課後に作ったんだ。マサに教えてもらって……ていうか、白状するとほとんとマサが作ってくれたようなもんなんだけど……」
同じAクラスの聖川真斗は、男子でありながら恐らくそのあたりの女子より料理や裁縫が得意だった。バレンタインデーについて相談を持ちかけたところ、ここはやはり手作りだろう、とアドバイスをされ、その流れで教えてもらいながら作ることになったのだ。正直いくらなんでもいきなり手作りチョコは無理なんじゃ、と思っていたのだが、丁寧でわかりやすい説明と手助けで、なんとか作ることができた。
とはいえ、今言った通り、実質自分は助手的な作業しかできていない。それでも、チョコを刻んで、溶かして、生クリームやコーヒーリキュールを入れて混ぜて、と、簡単な部分はちゃんと一人でこなした。
だから、一応手作りチョコレートだ、と思う。いや、そうだ。そう言わせて欲しい。
そういうわけで、マサにすごく手伝ってもらったけど一応俺の手作りなんだよ、という音也の説明を聞いているのかいないのか、トキヤは驚いた顔のまま赤い袋から中身を取り出した。
手のひらサイズの、やはり赤い小さな箱は、透明なビニール袋にラッピングされ、縛り口は箱と同色の赤いリボンで結ばれている。このラッピングの材料も、真斗の助力合って用意できたものだった。いくつか種類を持ってきてくれて、その中から音也が選んだのだ。そしてその中に、作った中で、一番綺麗なものを選んで入れた。
「売ってるやつしか食べたことないけど、作ろうと思えば作れるんだね、こういうの。マサ曰く一番簡単な手作りチョコなんだって」
「聖川さんにしてみればそうでしょうが、それでもあなたがこれを……」
「へへっ。割とうまくできてるでしょ?」
丁寧にリボンをほどき、トキヤはそっと手のひらに箱を乗せた。無糖のココアパウダーを乗せた小さなトリュフをじっと見つめ、ぐっと眉をしかめる。そうしてそのまま少し考えるように沈黙してから、トキヤは前触れもなくいきなり立ち上がった。
「えっトキヤ?」
「今からでも何か……用意します。ホットチョコレートくらいなら、コンビニのチョコになりますが作ろうと思えば……」
まさかの手作りチョコに、用意できなかった負い目が再びトキヤの胸にのしかかったのだろう。もらいっぱなしなんて許せません、とぶつぶつ呟き、トキヤは脱いだばかりのコートへ向かおうとした。その腕をがしっと掴み、音也はトキヤを引き戻す。
「いいってばもう! こんな遅くに寒い中また出かけるなんて駄目。俺が許しません。トキヤはもう、ここから出ちゃ駄目」
「ですが……」
「駄目ったら駄ー目! 帰ってくるのずっと待ってたんだから、もう俺から離れないで」
ね、と甘えた声で強請り、音也はトキヤを再び隣に座らせた。
気持ちはありがたいが、こんな夜に寒い中、行かせるわけにはいかない。微妙に負けず嫌いも入ってるよね、と内心苦笑しつつ、けれどやっぱりそんなところも可愛くて、心がほわりと温かくなる。
「それはまた別の機会ってことで、それ食べてみてよ。あーでもこんな夜遅くにチョコレートなんて、まずいかな」
「馬鹿ですね。そんな無粋なこと……いくらなんでも言うわけがないでしょう。いただきますよ、ありがたく」
「うん。へへっ……」
朝食からカロリーを計算して作るほど食事にうるさいトキヤは、普通深夜に何かを食べることはしない。小腹が空いた、という音也に簡単な夜食を作ってくれることもあるが、自分は食べないという徹底ぶりだ。
だが、今日は特別ということなのだろう。食べてもらえないかも、と不安そうに見る音也に、トキヤはふっと優しい笑みで答えてくれた。とても柔らかい綺麗なそれに、どくんと胸が熱く鳴る。あぁ大好きだなあ、と改めて思う。
「……どう、かな」
「おいしい、です。とても。初めて作ったとは思えないくらい……柔らかくとろりとしていて……コーヒーが甘さを押さえてくれて、ちょうどいい」
トリュフをひとつつまんで口にしたトキヤは、僅かに目を見開いてそう感想を述べた。それにほっとし、音也は詰めていた息を吐く。緊張のあまり、無意識に息を止めていたらしい。そんな音也を少しおかしそうに見ながら、「本当に、おいしいですよ」とトキヤは繰り返してくれた。
滅多に聞けない優しい声音と、パウダーの残った唇をぺろり、と舌で舐める仕草に、音也はうわあ、と声なき悲鳴を上げる。
頑張って作ったチョコを食べてもらえて、おいしいと言ってもらえて、挙げ句に可愛くていやらしい仕草なんて見せられたら、嬉しくて幸せで、好きで好きでたまらない想いがどっと溢れてしまう。
「やっぱり……俺もチョコ欲しいな」
「え……、ん」
返事を聞く前に、「食べさせて、」と囁いて、音也はまだ少しパウダーの残る唇をちゅう、と吸った。僅かに開いていた隙間をくぐって舌を差し込み、トキヤの口の中で溶けたコーヒーチョコの甘みをすくう。チョコレートはトキヤの唾液と混じり、より一層甘く感じられた。くちゅりと音を立てて吸ってからまたすくい、トキヤの舌に塗り付け、ゆるりと絡めて強く吸い上げる。
「は……音、也……」
「……ほんとだ。すごくおいしい」
チョコレートの味が消えるまで深く長く口付けてから、音也は唇を話して微笑んだ。トキヤは顔を真っ赤にし、キスで潤んだ目で音也を睨む。
睨んでいるつもりなのだろうが、音也から見れば恥ずかしくて照れているその顔は可愛い以外の何ものでもなかった。ああ可愛いなあ、と頬が緩み、目尻がさがってしまう。
「食べたいなら、普通に食べたらいいでしょう。こんな……口、で……」
「どうして? 普通だよ。だって俺たち恋人同士じゃん」
「な……」
口を覆い言いにくそうに言葉を濁すトキヤに、音也は首を傾げて笑った。
トキヤ以外の人間とするなんて例え学園長の命令でも応じられないが、大好きな人が相手なら喜んでする。唇も唾液も吐息だって、音也にとってはチョコレートよりずっと甘く贅沢なものだ。熱を、甘さを分かち合うことにためらいも恥じらいもない。
けれどトキヤにしてみれば、やはり羞恥や照れがあるのだろう。自分より年上で色々慣れていそうなのに、その実そうでもない。音也の要求に戸惑うことのほうが多く、それでも最終的には応えてくれる
「ね。トキヤ、もっとチョコ、食べたいな」
「だから、食べたいのなら……」
「ここで、食べさせて。トキヤのチョコが食べたいんだ」トキヤの手を口から離し、音也は濡れて柔らかな唇をちょん、と指先でつついた。甘える声で逃がさないという意志を込め、低い声でもう一度「食べさせて」と囁く。
トキヤはしばしの逡巡を見せ黙り込んだが、音也は辛抱強く待った。つつ、と唇を指で撫で、期待を込めた目で見上げる。
そうしてややしてから、音也の指に温かな息が触れた。仕方ない、というように吐かれるため息は、承諾の意味に等しい。
こうなった場合、音也がまず引こうとしないことを知っているのもあるだろう。そういう性格だと承知でやっている自分は、少し、いやかなり狡いのかもしれない。でも、それくらいじゃないとトキヤはなかなかガードをゆるめてくれないから仕方ないのだ。それに、本当に嫌なことなら断固拒否するし、トキヤが心底から嫌がることなら、音也だって無理強いはしない。だからこれは、正真正銘合意の上での行為だ。
「はい、トキヤ」
「……まあ、チョコを渡せなかったのは私の失態ですし、あなたが望むのなら……」
「うん!」
最後の躊躇いを押し退けるためだろう。そんな言い訳をするトキヤがまた可愛らしくて、音也は満面の笑みで頷き身を寄せた。やや眉根を寄せながらも、トキヤはトリュフを一つ摘むと自らの口に咥える。
これでいいんですか、というように目を上げる仕草にざわりと体の熱を上げ、音也は甘いチョコレートと甘い唇にむしゃぶりついた。柔らかなチョコレートを唇で崩し、舐め、トキヤの唇ごと強く吸う。口腔に満遍なく広がった甘みを追って舌を動かすと、とろけたチョコレートにまみれたトキヤの熱いそれにぶつかった。舌先で舐め合い、絡めて、こくりと飲み下す。
口端から僅かに零れたチョコを追い、音也はちろりと舌で肌を舐めた。トキヤはふるりと身を震わせ、吐息に混ぜて喘ぎを漏らす。その甘い声に頭を熱くさせ、音也はトキヤを抱きしめてより深く口付けた。
「……ぅ、ん……ぁ……」
「トキヤの唇も……甘い。すごく、おいしい」
「馬鹿な……こと、を……」
「ほんとだよ。いつも甘いけど、今日はもっと……甘い」
比喩でもなんでもなく、それは事実だった。柔らかく薄い唇を吸い、熱い中に舌を差し込んであちこちを撫でると、甘やかな味が広がっていく。好きな人とするから、そう感じるだけなのだろうか。トキヤと恋人同士になるまでキスなんてしたことがなかったからわからない。
ただ、甘くて、気持ちよくて、ずっとずっとそのままでいたいといつも思う。今日はそこにチョコレートが加わっているから余計だ。
チョコレートの甘さも、トキヤの甘さもかけあわさって、飽きることなく続けてしまう。合間に漏れる少し荒くなったトキヤの呼吸にドキドキと胸が高鳴り、触れている体の熱が上がっていくことにも気付き、興奮する。
「トキヤ、もっと……」
「もう、いいでしょう……ん……」
「チョコは、まだあるよ」
甘い息を吐き身を引こうとするトキヤを許さず、音也は箱からトリュフを摘むと唇に押し当てた。少し躊躇いを見せながらも、トキヤは緩く唇を開きそれを受け入れる。厳しい言動が多く容赦のない性格でありながら、それと同じくらいトキヤは優しく、甘かった。そうやって許しちゃうから調子に乗っちゃうんだよ、と、恋人の寛容さにくすぐったく嬉しい思いが込み上げる。
「トキヤ可愛い。大好き」
「ぁ……」
目を細めて笑み、音也はぱくり、とチョコレートごと食べる勢いでトキヤの唇に食らいついた。
すぐに溶かしてしまってはもったいないと、今度はあえて形を崩さず、トキヤの口の中でころころとボール遊びをするように転がす。その合間に時折内頬を舌先で攻めると、トキヤはびくりと身を揺らした。
キスを交わすうちに腕の中の体から固さは消え、手のひらで背を撫でると唇からは濡れた喘ぎが漏れる。鼻にかかった甘えるような声に気は昂ぶり、音也は唇を合わせたまま背から腰へ手を下ろした。ぐっと引き寄せるように力を入れ、体を密着させてより深く口付ける。
「おと……や……ほんとに、も……」
「まだ、チョコは残ってるよ」
恥ずかしさからなのか体が火照り始めているせいなのか、トキヤは顔から首までを真っ赤にして音也の胸を弱く押した。そんな抵抗では余計煽るだけなのだと、トキヤは全く学習していない。
頭はいいし、自分よりなんでもできる人なのに、こういうところではそれらは発揮されないようだった。こと恋愛に関しては不器用で、けれど無自覚に男を煽る。
「じゃ、最後のひとつは他のところで食べさせてもらおうかな」
「は……?」
「ここ、とか」
「っ……」
ふふっといたずらっぽく笑い、音也は柔らかなトキヤのニットの上から胸の辺りを指でつついた。探るように右胸の中心を指の腹で撫でると、ほんのり反応して固くなっているそこにひっかかる。
「ほら、ここも欲しがってる。ね、トキヤ……」
「っいい加減にしなさい! もうおしまいです!」
「いって……!」
ふるふると身を震わせ、トキヤは大声で怒鳴ると音也の頭にごつんと拳を振りおろした。不意の衝撃に情けない声を上げ、音也は頭を抱える。
「いったぁ……。ひどいよトキヤぁ〜」
「ひどいのはどちらですか。せっかくのチョコをそんなことに使うだなんて。最後のひとつくらいまともに食べさせてください」
涙目で訴えてはみたが、トキヤは取り合わずさっさと身を離すとチョコの箱を持って立ち上がった。それでも、最後のひとつはちゃんと味わって食べたい、というその想いが嬉しい。ゲンコツだって、本当はそんなに痛いわけではなかった。いや、もしかしたら実際の痛みのレベルはもう少し上なのかもしれない。ただ、音也にとってはトキヤのそれも可愛い反応でしかないから、あまり痛いと感じないのだろう。それまでに十分なほど、トキヤは音也の我儘をきいてくれている。
「ちぇ。それならもっとたくさん作ればよかった」
「チョコレートなんて高カロリーなもの、四つで十分です」
箱を袋にしまってから自分の机の上に置き、トキヤは「高カロリー」の部分だけ殊更憎々しげに言った。
ダイエットなど必要ないくらいスレンダーでスタイルもいいのに、トキヤは女子高生並に体重や体型を気にする。普段なら、夜中に菓子なんて逆立ちしたって食べない。そんなトキヤが今日だけは食べてくれたと思うと、やっぱり嬉しくて頬は緩んだ。
「でもほんとにおいしかったね。こんなの作れちゃうなんてさっすがマサだなあ」
「そうですね」
「料理も裁縫もできるの知ってたけど、お菓子づくりまでできちゃうなんてびっくりだよ。教え方も丁寧で優しかったし」
「……これくらいなら、私だって作れます」
心なしかむっとした表情で、トキヤがぼそりと呟いた。あれ、と目を見開き、音也はトキヤの顔をじっと見つめる。微妙な間を置いてから、トキヤはごほんと咳払いをした。
「…………なんですか、」
「もしかしてトキヤ……妬いてくれてる?」
「なっ……」
首を傾げてそっと訊くと、トキヤは絶句して目を逸らした。けれどその頬は一気に赤く染まり、言葉より先に答えを教えてくれる。
「そ……んなわけないでしょう。私はただ事実を言ったまでで……大体あなたは何においても大袈裟なんです。お菓子づくりなんて、少し勉強すればそれなりに……」
「うんうんそうだね。じゃあホワイトデー楽しみにしてる!」
「またあなたはそうやって人の話を聞かないで……」
早口で捲くし立てるのは、照れ隠しや図星を突かれて誤魔化したいときのトキヤの癖だ。最も、もうそんなことは知っているので全く効果はない。
そのことにも気付いてないんだろうなあ、と可愛い恋人の反応に抑えられない笑みを浮かべ、音也はぎゅっとトキヤに抱きついた。
「ちょ、音也、だから人の話をですね……」
「聞いてるよ。ちゃんと全部、聞いてるしわかってる。つまり、俺たちちょうラブラブってことでしょ?」
「――」
ね、と付け足して軽く唇にキスをすると、トキヤは小さく目を見開いてすっと伏せた。唇を離しても否定の言葉は出ず、腕の中の体から強張りも消える。
「大好きだよ、トキヤ」
何か言おうと開かれた口は、その囁きにまた閉じられた。同じように好きだとは返してくれないけれど、躊躇いがちに背に回された腕がそれを教えてくれる。重ねた唇に応じてくれる唇が、好きだと、伝えてくれる。
日付が変わりバレンタインが終わってしまっても、音也は腕の中の可愛い恋人と甘く長いキスを交わした。
2012/2/27初出・2012/3/4再掲
14日当日に何かさらっと書けないかなっと思い立ったものの、
さらっとどころか普通に2週間くらい経ってできあがりました……。
チョコプレイも捨てがたいけどそれはホワイトデーで!(笑)
トキヤ視点の話も考えてるので3月中に書けたらいいなあ……と思ってます。
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