だからそんなに優しくしないで、

深く厚く積もった冷たい雪が溶けていくように。
固く閉じた蕾が綻んでいくように。
ゆっくりゆっくり、ほんのりと少しづつ、けれど確実に、それは目の前で変化を遂げていった。
気付くまでには、ちょっと時間がかかったと思う。でも、気付いたときにはひどく嬉しくて、詩的に表現すれば胸が震えた、とでも言うのか、自分でも驚くほどに心が浮き立った。
ぴったりと閉じていた扉が開き始めたことに、ただ感動していた。
だから、それがどんな感情から来ているものなのかまでは、その時は思い至らなかった。



さらさらとシャーペンの芯がノートの上を走る音に、音也は僅かに目を上げた。
几帳面な彼の性格そのままに、紙面に生まれる字は少し尖っていて歪みがない。ペンの持ち方も綺麗で、その細い指を音也はそっと見つめた。
見られていることに気付いていないルームメイトは、時折手を止めて教科書を読み、問題の答えを書き記していく。
今は学校もとうに終わっていて、夕食も終えた就寝前の時間だった。
明日は土曜で休みなのだが、音也は同室のトキヤと共に教科書を開いて勉強に励んでいる。
いつもならギターを弾いたり、借りてきたDVDを見たりして夜更かしをしていただろう。それなのに何故こんなことになっているのかというと、今日に限ってトキヤがここにいるからだった。
自分と違い、学業以外にアルバイトで忙しいトキヤは、平日の夜や土日はほぼ部屋にはいない。それが珍しく今日はいて、明日も出かけるのは午後かららしく、だったら課題を一緒にやろうと音也が持ちかけたのだ。
基本的にトキヤは、部屋にいても自分の机で一人読書をしたり勉強をしたりする。今日だって、音也が言わなければそうして過ごしただろう。
けれどせっかく部屋にいるのに、二人でいるのに、それは寂しい。一緒にすることが勉強という点もある意味寂しいが、それでも同じ部屋にいるのに背中合わせでいるよりは、ひとつの机に向かい合わせで座っている方がいい。
いい、というより、そうしたかったのだ。
例えそれがあまり得意でない勉強であっても、トキヤと二人でいられる時間をできるだけ近くで過ごしたいと、そう思った。
4月にここ早乙女学園に入り、この寮で彼と同室になってから数ヶ月が経つ。
真面目で固く、自分にも他人にも厳しいトキヤとの生活は最初こそぎこちなくやや緊張感を要されたものだったが、今ではようやくそれなりに打ち解け、互いのペースを受け入れられるようになっている。
勉強なんて方法じゃなくても、それこそDVDを見るとか、ゲームをするとか、いくらでも一緒に過ごす手段はあっただろう。だがしかし、誘ってOKをもらえる確率はかなり低い。
当初より仲良くなったとはいえ、やはりまだ、壁はある。だから、トキヤが頷いてくれるだろう確率の一番高いものを選んだ。
最も、課題があるのは本当で、一人ではなかなか捗らないのも事実なので、選んだ理由はそれだけではないのだが。
ぱらり、と問題集をめくり、音也は並ぶ小さな黒い字に目を落とした。
課題は90ページから100ページまである問題だ。これを月曜の朝までに終わらせないといけない。ぼんやりしている場合でもないと、音也は集中集中、と心で唱えて空白になっている括弧を埋める作業を始めた。
しんとした空気の中、問題集や教科書、ノートを捲る音とシャーペンの音だけが静かに響く。
トキヤは無駄口を叩いたりしないし、問題に詰まって大きな溜息をつくこともなかった。規則正しい呼吸のまま時折淹れたコーヒーをごくりと飲み、また紙面に集中する。
その「ごくり」と飲み下す小さな音に、音也はどきりと胸を鳴らした。
ただ単に、コーヒーを飲んだだけだ。それなのに、どうしてこんなにも動悸が激しくなるのだろう。微かな呼吸音に、緊張が走るのか。
音也だって、トキヤが淹れてくれたカフェオレを飲んでいるし、自分のその音も聞こえる。けれど、自分のそれと彼のそれとは明らかに別物だった。
違うのだ。そんな単純な、ただの音ではない。
彼が、彼の唇がカップに触れ、コーヒーが喉を通って体内に入っていく。それがトキヤの動作だから、ひどく落ち着かない気分になる。所作に、音に、敏感になる。
は、と抑え気味に息を吐き、音也はカフェオレを一口飲んだ。トキヤのブラックコーヒーとは違う、砂糖とミルクが入っている優しい甘みが、ほわりと口に広がる。ちゃんと音也の好みの量で淹れられているのが、嬉しくて幸せで、同時に少し苦しくなる。
トキヤがこんなに優しい人だということを、きっと自分以外で知る人は少ないだろう。トキヤと同じSクラスの来栖翔とはよくサッカーをする仲だが、最初の頃は
『おまえよくあんな小姑みたいのと同じ部屋でやってられるな』
なんて言われていた。
ポーカーフェイスだし、完璧主義だし、成績優秀、歌唱力も他の生徒の頭一つ分、いや二つくらい飛び抜けている。 自分にも他人にも厳しく、発する言葉もきついものが多い。外側から見れば、確かにそう思われても無理はないのかもしれなかった。
けれど違う。トキヤは優しい。
口ではなんだかんだ言っても、こうして一緒に課題をしてくれるし、カフェオレだって淹れてくれる。
音也があまりに起きるのが遅いと、布団をはぎ取って起こしてもくれて、朝食も夕飯も、最近は自分の分だけでなく音也の分も作ってくれるようになった。
好きなアーティストのCDを、たまたま見つけたからと借りてきてくれたこともある。
出会ったばかりの頃は「ただのルームメイト」としか思われていなかっただろう。音也が寝坊しようが放置で、食事だってお互い別々だった。
でも、今は多分、それより少し昇格している。彼の隠されている優しさを、顔を、多く垣間見るようになった。
いや、それは自分だけではないのかもしれない。
現に、「あんな小姑」呼ばわりしていたはずの翔も、Sクラスの神宮寺レンも、今ではトキヤと一緒にいることが多くなっていた。
真面目で頑固でやや毒舌家で、それと同時にとてつもない努力家であり歌への情熱を強く持っているのがトキヤという人だ。同じクラスで日々を過ごし接する中で、そういう部分を知ったのだろう。そして、一見冷たいようで優しい人だということにも、気付いたのかもしれない。
そう思うと、ざわりと不穏に心が騒いだ。
一番最初に、トキヤの隠された面に気付いたのは自分だ。その優しさに触れたのも自分が最初で、こんな風にカフェオレを淹れてもらったりご飯を作ってもらったり、素の顔を見ているのは自分だけだ。そのはずだ。
ここまで来るのには、相当な時間がかかった。
冷たくあしらわれてもめげず、きつい言葉を吐かれてもへこまず……いや、本当は結構落ち込んだりもしていたけれど、それでも音也は諦めなかった。
一年という短くない時間を同じ部屋で過ごすのだ。少しでも仲良くなりたい。この部屋を、お互いにとって居心地のいい場所にしたい。
だから、頑なな彼との距離を縮めようと努めた。引かれた一線を、立ちはだかる壁を、越えようと頑張った。
その結果、ほんの少しずつではあったがそれは成功したようで、最近は優しさを、気安さを、見せてくれるようになった。
だが、翔の変わりようから考えて、それは自分以外の彼の側にいる人間にも伝わりはじめているのだろう。
トキヤについて、冷たいだの、無愛想だの、偉そうだの、色々言われることは幾度かあって、そのたびに、そんなことはないのに。トキヤは優しいのに。ともどかしく思っていた。みんなにも知って欲しいと、知ればすごくいい奴だってわかるはずだと、その頃は思っていた。
それなのに、いざそうなってくるとなんだかとてももやもやする。トキヤのいいところを知って欲しかったのに、自分だけが知っている彼がなくなってしまうことに、寂しさを感じている。
トキヤの起き抜けの無防備で少しぼんやりした顔や、ぐっすりと寝入っている顔、ほんの時々見せる、柔らかい笑みも、同室の自分しか知らない。そうでなければ、嫌だ。
誰にも見せたくない。知られたくない。自分だけの特別で、宝物で、独り占めしたくて堪らない。
ちらりと気付かれないように、音也は向かいに座るトキヤを盗み見た。
風呂に入った後の髪はすとんとまっすぐに落ちていて、学校にいるときより少し無防備で可愛らしい。長い睫に縁取られた綺麗な瞳、筋の通った鼻、薄い、柔らかそうな唇に、いつしか視線は釘付けになる。
ずっとずっと、こうして見つめていたい。揺れる髪、たまに考え込むようにして曲がる唇に、触れてみたい。そして、そんな彼の素の姿を独り占めしたいと、思う。
しばし見つめながら悶々としていた音也は、頭を占める数々の自分勝手な思いを振り切るようにトキヤから視線を外した。
ただ見つめていただけなのに、鼓動はとくとくと常より早く、なんだか頬が熱い。ごしごしと無意味に頬を手の甲でこすり、音也はまた白いままのノートに目を落とした。
どうしてこんなことを思うのか、自分でもよくわからない。いや、本当は薄々気付いている。
気付いているけれど、はっきりと言葉にしてしまったら、自覚してしまったら逃げ場がなくなる。だから、もやもやとした気持ちのまま放置しているのだ。
「……とや、音也?」
「っ……」
ぎゅっとシャーペンを握り締めてノートを見つめていた音也は、かけられた声にはっとして顔を上げた。ぱちりと瞬きをすると、こちらを怪訝そうに見つめるトキヤの顔が目に入る。まっすぐに見つめる綺麗な瞳にどきんと胸を鳴らし、音也はへらっと笑ってみせた。
「えっあ、何?トキヤ」
「それはこちらの台詞です。ノートを見つめたまま随分と動かずに……一体どうしたんです、」
「あ……えと。ちょっと詰まっちゃって」
まさかこちらの様子に気付いているとは思わず、音也はやや焦って誤魔化した。自分の課題に集中しているようで、ちゃんと音也にも注意を払っていてくれたことに、ふわりと心が浮上する。
「わからない問題があったのなら、まず調べる。調べてもわからなかったら聞きなさいと、そう言ったでしょう」
「うん。そうだね。そうだった。ごめん」
全く、とトキヤは呆れたように溜息をついた。そうして肩をすくめ、「どこですか、」と腰を上げてこちらに身を乗り出してくる。
うわ、と内心で叫びながら、音也はぎゅっとシャーペンを握った。近付いたトキヤの顔にどきどきと心臓は高鳴り、触れそうな髪や形のいい唇に全身がかーっと熱く火照る。
そんなに急に近寄らないでよ、と言いたくとも言えるはずがなく、音也はぎこちなく適当な問題をペン先で示した。
「こんな問題で詰まっていたら、月曜までに全部終わりませんよ」
「う、うん……。ごめん」
「謝っても仕方ないでしょう。ほら、教科書を開いて。ちゃんと読めば、答えは見つかります」
まともに顔を上げれば息づかいまで届きそうで、音也は僅かに身を引くと俯いた。それを叱られて落ち込んだと勘違いしたのか、トキヤは声音をやわらげて丁寧に教えてくれる。ほんのりと滲むその優しさに胸はじんと熱く潤んだ。
とても言えないようなことを悶々と考えていたのが申し訳なくて、でも嬉しくて、ないまぜになった感情に翻弄される。
「あぁ、ここですよ。上から3行目を読めば書いてあります」
「うん。ありがと」
音也の教科書を手にとり、トキヤはぱらぱらとめくるとそこを指し示した。教科書を受け取って礼を言うと、トキヤがふっと柔らかく笑う。
不意に向けられたそれはかなり強烈で、治まりかけた鼓動はまたぞろ大きく跳ね上がった。
そんな優しい微笑みを見せるなんて、ひどい。けれど、今のそれは自分にだけ向けられたものだ。自分だけが知っている、トキヤの顔だ。
他にももっと、まだ知らない顔を見たい。まだ知らない彼を知りたい。自分だけの特別な彼が、欲しい。
そしてできうることなら、彼の特別になりたい。無理だとわかっていても、そんな欲求が募ってしまう。
こんな想い、普通友達には抱かない。わかっている。
気付くも気付かないもない。考えるまでもなく、この感情は……。
「できましたか?」
「あ、うん。さっすがトキヤ! 助かったよ」
「これくらいで大袈裟な……。というか、本当にこれくらいでつまづいていたら先が大変ですよ。私が見てあげられるのは今日だけなんですからね」
音也が手放しで褒めることは多々あるので、トキヤは大したことではないというようにそっけなく言った。けれどその実、少し照れている部分もあるのだ。ふい、と目を背けながらもまんざらではない表情に、音也は小さく笑む。 
負けず嫌いで努力家の人だから、まっすぐな賞賛はやはり嬉しいのだろう。それをポーズで隠そうとするところが、とても可愛いと音也は思う。
可愛いなんて、本来男に使う言葉ではないけれど、音也にとってはそうなのだ。
学園には、可愛い女子も綺麗な女子もたくさんいる。アイドルを目指している子たちが集まっているのだから当然だ。音也だって、普通に可愛いな、綺麗だな、スタイルいいな、と思う。
けれどそれでもどうしてか、そんな子たちよりずっとずっとトキヤのほうが可愛く見えてしまう。目が、行ってしまう。誰よりも彼を、一番に見てしまう。
その衝動の元にある感情が何かなんて、本当はもうずっと前に知っていた。知っていて、違うと打ち消そうとしていただけだ。
トキヤはかっこよくて、頭もよくて、そして、可愛い。すごくすごく、可愛いところがたくさんある。だから好きになっても仕方ない。好きになってしまったのだから、仕方ないのだ。
間違いなく、これは恋だった。とても残念な、未来の希望などまるでない、悲しい恋だ。
いつからこんな想いを抱くようになったのかはわからない。毎日を彼と過ごして、表面だけではない内面を知って、もっと仲良くなりたいと思って、気付いたら、友情以上の想いが育っていた。
とはいえ、好きだなんて言えるわけもない。言ってしまえば、ようやく縮まった距離は遠く遠く隔たってしまうだろう。
やっと得たこの距離を、優しさを、温かさを、失いたくはない。
「まあ、あまり根を詰めすぎるのもよくないでしょう。頭を使うことに慣れてない人は特にね」
「……それって、バカって言ってる?」
「さあ? とりあえず、少し休憩しましょうか。コーヒーを淹れ直してきます」
ふふ、といたずらっぽく笑い、トキヤは自身と音也のカップを取るとキッチンへ向かった。だからそんな可愛い顔しないでよ、と音也は机に突っ伏する。
さっきみたいに近付き過ぎると、どきどきしてどうしていいかわからなくなるし、かといってこうして離れてしまうと寂しいと思ってしまう。
恋とはなんて厄介なのかと、音也は深い溜息をついた。
好きだと言ってしまえれば楽だけれど、言ってしまえば地獄のような日々が待っているに違いない。
ひとたび得た温もりを失うことは、恐怖以外の何ものでもなかった。
失いたくない。でも、今以上が欲しい。
「淹れましたよ、どうぞ」
「……ありがと。トキヤはほんと優しいよね」
「何ですか急に。課題もこれも、ついでですよ」
「うん。でも、優しいよ」
すごく優しいよ、と繰り返し、音也は温かな湯気の立つカップを両手で包み込んだ。熱すぎない温度の甘いカフェオレが、喉を通って体の内側にしみこむ。
トキヤの淹れてくれたものだと思うと、染み込んだ温かさは邪な欲の熱に変容した。
ほんのり甘い温かなカフェオレのように、トキヤの唇も甘いだろうか。それとも、ブラックコーヒーを飲んでいるあの唇は、ちょっぴり苦かったりするのだろうか。
ごくりと飲み下すときに動くあの喉は、首筋から服に覆われたその下は、触れたら柔らかく、吸いついたら甘いのか。そんな不埒な妄想が悶々と頭を占めていく。
勉強なんて、選ぶんじゃなかった。一番近い距離なんて、望むんじゃなかった。
今更ながら、音也は自分の選択を後悔した。おかげで想いは急速に大きくなり、欲までが煽られ、なんだかどんどん手のつけられない状態になってしまっている。
ううう、と心の中だけで唸り、音也はカップを握ったまま俯いた。
知らない振りを続けていれば、こんなに困ることにはならなかっただろう。好きだなんて、恋、だなんて、自覚してしまったらもうどうにもならない。なかったことには、できない。それに、希望的な未来だってありえない。現実はシビアだ。
「……音也?」
「あ、ごめん。なんでも……」
ない、と言おうとして、顔を上げた音也は言葉を飲み込んだ。いつのまにか近付いていたトキヤが、真剣な表情でこちらを覗き込んでいる。
深い色の瞳が、長い睫が、薄い形のいい唇がびっくりするほどすぐ側で、音也は思わず息を飲んで唇を引き結んだ。ただ近付いただけなのに、かーっと再び顔が熱く火照る。
「あ、あの……トキ……」
「音也あなた……もしかして熱でもあるんじゃないですか?」
「えっ……」
むむ、と眉根を寄せてまた顔を寄せ、トキヤはこちらへとを伸ばした。逃げる間もなく、額にその手のひらがやんわりと触れる。
「っ……」
「やっぱり少し熱いですね。さっきからぼんやりとして様子もおかしかったし、風邪かもしれない」
「いやっあのっそのっ」
「勉強はここまでにしましょう。悪化したら土日両方つぶれかねません。今日はもう寝たほうがいいですね」
自分の額の熱と比べるようにしてから、トキヤは音也から手を離すと腰を上げた。
熱とか風邪とかではなく、ただトキヤが急に顔を近付けるからドキドキして熱くなっただけなんだ、なんて言えるわけもなく、音也は無意味に口をぱくぱくさせた。
「無理は駄目です。今体温計と薬を用意しますから、あなたはさっさとベッドに入ってください」
「でもあのトキヤ……」
「つべこべ言わずに立つ」
「はっはい!」
ぴしり、と半ば命令口調で言われ、音也は思わず背筋を伸ばして返事をした。
確かに顔も体も熱いけれど、風邪なんかじゃないのに、と思いながら机に手をついて立つと、どうしたことかふらりと目眩が起こる。
「と、大丈夫ですか?ふらつくなら寄りかかってください」
「だ、だいじょぶ。だいじょぶだから!」
「目の前で倒れられても困ります。ほら、ちゃんと寄りかかって」
「う……うん……」
手を伸ばし、トキヤは支えるように肩を抱えてくれた。今までにない密着した距離とトキヤの感触に、心が悲鳴を上げる。
嬉しいけれど、もっとこうしていたいけど、余計体が熱くなってしまう。
「そもそも音也から勉強しようだなんて言ってくることがおかしい。そこから疑いをもつべきでした」
「トキヤひどい……」
「……冗談ですよ、バカですね」
軽口を言いながらも、トキヤは音也をベッドまで誘導してくれた。ふっと笑う顔が優しくて、ああやっぱり好きなんだ、と改めて恋心を自覚する。この笑顔を自分だけのものにしたいと、そう思う。
「体温計を持ってきます。それと、熱さましの冷却シートと……一応風邪薬、ですかね」
「そんなに大袈裟にしなくても、一晩寝れば治るよ。やっぱりちょっと、俺にしては頭使いすぎたのかも」
ごろんと転がり布団に入ってから、音也は腕を額に当てた。確かに額は熱い。顔も体も熱いけれど、これは本格的に熱を出している状態だ。
勉強で頭を使ったわけではないが、恐らく色々とぐるぐる考え込んだせいだろう。いわゆる知恵熱というやつかもしれない。だから多分、一晩経てば治るはずだ。
「そんな風に軽く見て、治らなかったらどうするんです。いいから言うことを聞きなさい」
「……心配してくれてるんだ? やっぱりトキヤは優しいよ。すごく優しい」
「別に……ただ、悪化して移されたら迷惑だと思っただけです」
「うん」
「明日は午後から出かけなくてはならないし、日曜も丸々予定が入っているし、体調を崩すわけにはいきません」
「うん」
「だから……」
「でも、優しいよ」
勘違いしないでください、と言わんばかりに色々と最もらしい理由を並べ立てるトキヤを、音也は微笑んで見上げた。ばっちりと合った瞳が、ほんの僅か揺らいで見えたのは気のせいだろうか。うっすらと頬が赤く染まっているのは、熱のせいで視界がおかしくなっているのか。
いや、違う。それはどちらも本当のことだ。
その証拠に、トキヤは慌てて視線を逸らし、らしくもなくばたばたと薬箱を取りに行ってしまった。まるで逃げるように、見透かされることを避けるように、背を向けた。
なんて可愛い反応をするんだろうと、音也は苦く笑って目を閉じる。
こっちの気も知らないで、あんな顔をされたら、態度を取られたら、ますます好きになってしまう。それどころか、あわよくばトキヤも自分を、なんて、ありえない期待までしそうになってしまう。
「体温計です。それと、これを額に貼ってください」
「ん、ありがと」
すっと差し出されたそれらを受け取り、音也は大人しく言われたまま体温計を脇に差した。透明なフィルムをはがしてシートを額に貼ると、ひやりとした心地よさが広がっていく。
「喉は乾いてないですか?カフェオレではなく、ホットミルクか……はちみつがあればはちみつしょうが湯も作れたんですが、生憎ここにはありませんし……」
「いいよ」
うーんと首を傾げて考えながらキッチンへ向かおうとするトキヤを止め、音也は手を伸ばした。そうして立ち止まったトキヤの腕を、ぎゅっと握って捕らえる。
「いいよ、そんなの。そんなことしなくていい」
「ですが……」
「いいから……。それより、もう少し側にいて」
「……」
「ここに、いて」
こんな言い方は、少しおかしい。自分でもそうとわかっていて、けれど止められなかった。
このまま、トキヤに側にいてほしい。熱が出て心細いとか、そんなのじゃない。ただ、どうしてか離れたくなかった。
今の彼を、優しく柔らかな、自分だけを見てくれている彼を、少しでも長く近くで感じていたい。
「……どうしたんですか。子供みたいに」
「そう、かな」
「普段うるさいくらい元気なくせに、そんな不安そうな顔をして……」
「……ごめん」
体調を崩したときの心細さのせいと理解したのか、トキヤは珍しくきょとんとしてから、少しおかしそうに笑う。
本当の理由を知ったら、そんな風に笑うことなんでできないだろう。だから音也は、その勘違いを利用して曖昧に頷いた。そうして手を離そうとしたものの、どう にも体は言うことをきかない。どころか、このままもっと近くに、この腕に抱きしめられたらなんて、呆れた願望が頭をもたげる。
そんな音也の葛藤など知らないトキヤは、まるで子供をなだめるように音也の手をぽんと軽く撫でた。
「そんなに力一杯握らなくても、ここにいますよ」
「……」
「ここに、います。だから、具合が悪くなったらすぐに言いなさい。安心していい」
呆れたような口調でも、そこには確かに温かな響きがあった。手が触れた箇所はひどく熱く、それはものすごい勢いで全身を駆け巡る。優しい声音と柔らかな表情に、抑えきれない想いがせり上がる。
その熱と想いに突き動かされ、音也はトキヤを捕らえたまま起きあがった。
「俺……」
「はい?」
「俺、トキヤが……」
急に起きあがった音也に目を見開きつつ、トキヤはそのまま待ってくれた。まっすぐに見返す瞳に心臓はドキドキとこれ以上ないほどに高鳴り、頭も顔も、全部が熱く火照る。
このまま、言ってしまいたい。トキヤが好きだと、告げてしまいたい。
でもそうしたら、もうこんな距離には近付けないだろう。優しい笑みも、声も、失うことになる。確実に、なる。
それは嫌だ。トキヤの心が誰かのものになるのも嫌だけれど、今のこの場所を、位置を、失いたくはない。
「俺……っ」
「なんですか?」
トキヤのことが、と続けようとしたところで、脇に挟んだ体温計が「ピピピッ」と鳴り響いた。緊張していた体からどっと力が抜け、音也は邪魔をしてくれた体温計をそろそろと抜き取る。
「微熱より少し高い程度ですね。あまり高くなくてよかった」
「……うん」
体温計を見ながら、トキヤは少しほっとしたように表情をやわらげた。いや全然よくないんですけど、と心で叫びつつ音也は肩を落とす。
「で、何なんです?」
「えっ?」
「今、何か言いかけたでしょう?」
「あ……えと……」
体温計をケースにしまい、トキヤは律儀に話を戻した。もう一度チャンスがきた、と思えなくはないが、さすがにこんな流れで言うことなんてできない。
「ええと……」
「私が、なんですか?」
「トキヤが……同室で、よかったなって……」
ほんの僅かな間逡巡し、音也は目を伏せてそれだけを押し出した。これだって嘘ではない。いや、半分は嘘、かもしれない。
トキヤが同室じゃなかったら、他の誰かがこの場所にいただろう。この位置を、得ただろう。そんなの自分以外に許せないと、そう思う。
だが同時に、同室でなければ好きにならなかったかもしれないとも思う。
彼の素顔を知らなければ、触れなければ、こんな厄介な想いを抱くことなんてなかった。
同室でよかった、でも、同室じゃなきゃよかった。
そんな想いが交互に錯綜する。けれど結局行き着く答えは、同室でよかった、だ。現時点で彼の一番側にいるのが自分であることは、間違いない。
「そんなことを言っていくら持ち上げても、あなたの課題を代わりに片づけるなんてしませんよ」
「まさか。頼まないよ、そんなこと」
見当違いな返しに、音也は思わず声を立てて笑った。そんなこと、欠片も思っていない。持ち上げたつもりもない。全部、本当のことだ。本音だ。
だが、今の自分たちの関係では、そこまでの発想が限度ということなのだろう。恋の対象として見てもらえるには、越えなければならないハードルが山ほどある。相手がトキヤなら尚更だ。
「そんなつもり、ないよ」
「……そうですね。どんなに苦しくても辛くても、自分の力でなんとかする。あなたはそういう人でした。そこだけは、素直に評価しましょう」
ふっと笑うその表情に、胸がぎゅうっと締め付けられる。止めよう止めようと思うほどに、今日のトキヤはとても優しくて可愛くて、その意思は呆気なく崩された。
ちゃんと、見てくれている。理解してくれている。
たったひとつでも、あのトキヤが評価してくれる部分があることは奇跡だった。大体いつもなら、こんな風にストレートに言葉になんてしてくれない。思っている分の十分の一だって口にしない人なのだ。
「やっぱりトキヤは優しいよ」
「……優しいのは、どっちでしょうね」
「え?」
「なんでもありません。さあ、もう寝なさい。私はそこにいますから、何かあれば呼べばいい」
よく聞こえずに聞き返したが、額をとんと押されて誤魔化された。仕方なくトキヤから手を離し、音也は再び布団に潜り込む。
自分の机に戻るかと思いきや、トキヤは元の通り、中央テーブルの席に座った。横向きになって覗き込めば、音也のベッドからも見える位置だ。背を向けてしまうよりその方が様子を見られると判断したのだろう。
ほらやっぱり優しいと、音也は垣間見えるその横顔をそっと見つめた。
そんなに優しくされたら、素顔を、本音を見せられたら、どんどん好きになってしまう。今はまだ自分だけしか知らないだろうそれらを独り占めしたくて、全部を自分のものにしたくて、堪らなくなる。
これ以上想いが育ったら、きっと我慢の効かない自分は彼に告げてしまうろう。好きだと、自分だけを見てほしいと、言ってしまう。
「ねぇトキヤ、」
「なんですか。さっさと寝なさいと言ったでしょう」
「……はぁい」
きっと厳しい目つきで音也を見てから、トキヤはまた教科書へ向かった。素直に返事をしておいて、音也は心の中で言えない想いを紡ぐ。
ねぇ トキヤ、俺お前のことが好きなんだ。自分でもびっくりしたけど、本当に好きで、こうやってただ見てるだけでもちょっとドキドキしてくる。顔が熱くなる。 こっちを見てくれないかなって、こんな顔見られたら困るけど見てほしいって、そう思ってる。でも、言ったらお前が困るってことも、わかってる。だから。
「明日になっても治らなければ、翔や聖川さんにも頼んでおきます。だから大人しく寝なさい」
「うん。ありがとトキヤ」
だからそんなに優しくしないでよ、と心で呟き、音也は想いを閉じこめるように目を閉じた。
この熱のように、明日になったら想いも冷めていればいい。錯覚だったと、思えればいい。
そんなことは到底無理だとわかっていても、そう願わずにはいられなかった。
恋はもう、始まってしまった。

2012/3/4UP。
基本的なこの辺を自分で書いておかないと後々迷うなと思っての習作です。
好き!って思ったら突撃!な音也さんだとは思うんですが、
相手がトキヤだからこそちょっと迷ってほしいなみたいな。
あと無自覚なエロきゃわトキヤさんて罪だよねっていう話でした(笑)
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