天にも昇るような気持ち、というのはまさにこういうことを言うのだろうか。ついさっきまではどん底に落ち込んでいたのに、今は正反対だ。嬉しくて幸せで、沈んでいた心は一気に急上昇してしまった。
たった一人で過ごすかもしれなかった誕生日が、大好きな人と二人で過ごせる誕生日になったのだ。例え片思いでもそんなことは関係ない。二人きりで一緒に過ごすことに意味がある。
「ケーキならね、あるんだ。現場でもらったやつで、結構でかいから一人じゃ厳しいなって思っててさ」
「ケーキ……ですか」
握った手を離さないまま、音也はトキヤを引っ張った。高カロリーであるケーキという単語にやや眉根をひそめたトキヤに、音也は笑う。
「そんなにたくさんじゃなきゃ大丈夫だろ? 誕生日なんだし、トキヤも少しは食べてよ」
「……そうですね。今日は一年に一度の日ですし」
そうしましょうか、と返してくれる声音は柔らかく、温かかった。まるで同室だった頃に戻ったようでうきうきとした思いと、どきどきとした思いが交差して混ざり合う。
「そこ座ってて、今用意するから」
「今日の主役はあなたでしょう。どうせ部屋の造りは同じなんです。用意なら私がしますよ」
脱いだコートをソファにかけ、トキヤはキッチンに向かう音也を追った。それはそうなのだが、だからといって自分の部屋でお茶の用意をしてもらうというのもなんだか落ち着かない。
「これくらいいよ。俺がやるって」
「あなたに任せたらまずいコーヒーしか出ないでしょう」
「なにそれひっどい。前よりはましになってるよ」
「どうだか」
ぶう、と頬を膨らませて抗議すると、トキヤはおかしそうに口元だけで笑んだ。自然と出てくる軽口や気安い笑顔に、心が浮き立つ。
同室だった頃も、たまにこんな風に二人でキッチンに立つことがあった。ついでですから、とか、つまみ食いをされるとカロリー計算が狂いますから、とか、時間が合えばトキヤは音也の分もご飯を作ってくれて、たまに「手伝うよ!」と半ば無理矢理そこに参戦するのだ。
トキヤと一緒に何かをする、ということがしたくて、近くにいたくて、邪魔です、余計なことをしないでください、などと叱られながらも、それすら楽しくて音也は彼にまとわりついた。
今考えれば、相当に鬱陶しい行為だったと思う。それでもトキヤは、文句を言いつつ音也の相手をしてくれた。今も、自分のためにここに残り、ケーキを食べる準備を手伝ってくれている。
「現場のみんなで少しだけ食べちゃったから、形はもう崩れてるんだ。でも、おいしいよ。チーズケーキベースだから甘すぎないし」
「確かチーズケーキのカロリーは……」
「もうトキヤ、そういうのはいいから!」
当然のごとくトキヤのカロリー計算の習慣は健在で、ぷっと吹き出し音也は冷蔵庫からケーキの箱を取り出す。結局コーヒーを淹れるのはトキヤの役目になり、音也はナイフや皿を用意する係になった。
ふわりと薫るコーヒーの匂いはいつもと変わらないのに、トキヤが淹れてくれるというだけでなんだか違うものに感じる。
学園の寮にいた頃は、よく淹れてもらっていた。さっきのように、あなたの淹れ方では薫りが台無しになるとかなんとか言って、自分の分だけでなくブラックコーヒーが飲めない音也の為にカフェオレを淹れてくれた。
なんて貴重で大事な日常だったのだろうと、こうして離れてみて実感する。
「入りましたよ。……どうしたんです?」
「ううん。トキヤのカフェオレ、久々で嬉しいなって」
先にダイニングの椅子に座りぼんやりとしていた音也は、顔を上げてそう言うと笑った。そういえば久しぶりですね、とトキヤも軽く微笑む。
「それにしても、まだこれ使ってたんですか? 取っ手にひびが入っているから買い換えたほうがいいと、あの部屋にいた頃から言っていたのに」
「あぁ、うん。まだ使えるし捨てるのももったないと思って」
音也の大好きな赤のそのマグカップは、同室時代愛用していたものだった。いつだか誤って落としてしまって、持ち手の部分と本体にも、少しひびが入ってしまっている。
一応、この部屋に越した時、心機一転買い換えようと思いはしたのだ。けれど、そこに詰まっている一年の思い出を捨てることはできなくて、今もそのまま使っていた。未練がましいというか女々しいというか、我ながら本当に情けないと思う。
「そんなに気に入っているのなら、同じものを探すべきでしたね」
「え?」
「プレゼントですよ。あなたのことだから、まだ買っていないだろうと踏んで選んだのですが……」
足元に置いてあった紙袋を手にし、トキヤは中から赤い包装紙に包まれた箱を取り出した。そうしてテーブルの上に置き、音也へと差し出す。
「誕生日、おめでとうございます音也」
「嘘……」
ま さかのプレゼントに、音也はひどく間抜けな声で呟いた。今日はこんな天気だし、仕事場からまっすぐ来たならもし用意していても持ってくるのは困難だろう。 大体トキヤは音也よりずっと忙しいはずだ。それなのに、わざわざプレゼントを用意してくれて、ちゃんと、今日ここに持ってきてくれた。おめでとうという言 葉と共に、渡してくれた。
けれどトキヤとはそうした人なのだ。どんなに時間がなくても、例えまだそう親しくなっていなくとも律儀に祝おうとしてくれる。
去年の誕生日も、そうだった。
入 学して間もない頃の誕生日なんて、友達ができていたとしても日が浅く、祝ってくれる人はそうそういない。でもやっぱりあの時も、サッカーを通じて一番仲が よかった翔が寮でお祝いしようと言ってくれて、皆それぞれにプレゼントを用意してくれた。同室でありながら会話は少なく、音也を叱ってばかりのトキヤも、 用意してくれていた。
今使っているヘッドフォンは音漏れがして迷惑なので、と、新しいそれをプレゼントしてくれたのだそれはもちろん今も大事に使っていて、音也の宝物になっている。
トキヤとは、そういう人だ。不器用で、だけどとても優しい。
「やば……ちょー嬉しい。ありがとトキヤ!」
「まだこれを使いたいなら、無理に使うことはありませんよ。来客用にでもすればいい」
「トキヤからのプレゼントだよ?他の誰かになんて使わせるわけないじゃん!」
開けていい? と箱に飛びつき、音也は包装紙に手をかけた。そんなに乱暴に剥がすものでは、と注意され、破らないように気をつけて箱を取り出す。長方形のそれはマグカップひとつ分より横に大きく、蓋を開けてみてると何故なのかがわかった。
「これ、ペアなんだ……」
「ペアでしか売ってなかったんですよ。ひとつだけのものも見たのですが、あまりあなたのイメージではなかったので」
「すごい……可愛いね、これ」
二分された箱には、赤ベースで全体の二割にあたる上部が赤と白のチェック模様のものと、黒ベースで同じデザインのカップが入っていた。音也が赤好きだと知って、これを選んでくれたのだろう宝物がまた増えたと、音也は嬉しそうにその二つを取り出す。
「どうしよう……日替わりで両方使おうかな。それとも朝と夜で使い分けるとか……」
「そう無理に両方使わなくてもいいでしょう。さっきも言ったように、どちらかを来客用にすればいいんじゃないですか?」
「駄目だよ。俺もさっき言ったじゃん。トキヤからのプレゼントだもん。誰にも使わせ……あっそうだ!」
うーんと悩みながら二つを眺めていた音也は、ふと思いついて顔を上げた。そうして黒チェックのほうを手に取り、トキヤの前に置く。
「ね、これトキヤが使ってよ」
「は……? それではプレゼントの意味が……」
「いいんだよ。俺が使ってほしいって言ってるんだから」
困惑したように眉根を寄せるトキヤに構わず、音也はそれを更に押し出す。
プレゼントしたものを渡されれば、困るのは当たり前だろう。それでも、音也はそれをトキヤに持っていてほしかった。なんとも狡い、いやらしい考えだけれど、ペアのカップを互いで持っているという、その状況を作りたかったのだ。
そんな企みが込められているなんて、トキヤはまるで気付きもしないだろう。想いは今も、一方通行だ。
それでもいい。それでもいいから、自分を思い出すような何かを、彼の部屋に置きたかった。
「全く、妙なことを言う人ですね。本当にそれでいいんですか?」
「うん。いいよ。だってそしたら、トキヤ俺のこと忘れないでしょ?」
「……」
「それ使うたびに、きっと思い出してくれる」
赤のカップを手のひらに乗せ、音也は目を落とした。ふっと漏れてしまった本音に、自分でも苦笑する。
こうして誕生日を祝いに来てくれているのに、忘れるなんて情のないことをするわけがないと思っているのに、心の底には不安があるのだ。
彼を迎え入れた時、ふわりと薫った甘すぎず爽やかなコロンは、音也の知らないものだった。少しカットしたらしい髪も、今着ている服も、ソファの背にかかっているコートも、初めて見るものだ。
たった一ヶ月近くの間に、知らないトキヤが増えている。あの頃は、全てにおいて彼の一番を知ることができた。着ているもの、持っているもの、好きな音楽、好きな本、その時はまっているものだって、トキヤについての全部を、自分は知っていた。
でも今は違う。離れてしまった分だけでなく、それ以上に、知らないことが増えている。
だから、ふと不安になったのだ。これからどんどん仕事が増えて、知り合いも増えて、友達も増えたら、学園にいたたった一年のことなんて遠く薄らいでしまうのではないか。「同室だっただけの知り合い」に、なってしまうのではないか。
そんなのは嫌だ。そんなのは悲しい。自分は今だって昔と同じ、いやもっともっと、好きで好きで仕方ないのに。
「……バカですね、あなたは」
「バカ、かな」
「そうですよ。忘れるなんて……あるわけがないでしょう」
優しい、深い声音に、音也はそっと目を上げた。どこか苦しそうに、けれど淡く微笑み、「忘れませんよ」とトキヤは続ける。どうしてかどきりと胸が騒ぎ、音也ははっきりと顔を上げるとトキヤを見つめた。
今のは友達としての言葉であって、それ以上のものはそこにはない。ないはずなのに、トキヤの表情が、声が、きゅうと胸を締め付けてくる。他の感情もそこに紛れているのではないかと、馬鹿な期待を抱きそうになる。
もしかしたら、これは自分に与えられた最後のチャンスなのだろうか。夜の部屋に二人きりなんてもう今後巡ってはこないかもしれないシチュエーションだ。トキヤがこの部屋に来てくれることだって、実は今日が初めてだった。
皆と一緒に、ということはあっても、今後一人で来てくれることは恐らくない。そんな関係ではないし、理由もないからだ。だとしたら、やはりこれが最後のチャンスなのだと思えてくる。
だが、ここで自分が告白をして、それがまた失敗したら、この大事な時間も失う羽目になるだろうそう考えると、怖い。怖いけれど、怯えて迷っている時間だってない。あの頃と違って、今は次にいつ顔を合わせるのかすらわからないのだ。
いくらこんなマグカップに邪な想いを込めたって、届くわけがない。通じるわけがない。
トキヤをまっすぐに見たまま、音也はぎゅっとマグカップを握った。じわりと手のひらに汗が浮き、首から上が急激に熱く火照る。覚悟を決めろ、と自身を叱咤し、音也は思い切って口を開いた。
「トキヤ、俺……」
「……」
「俺さ、ほんとは今でも―」
勢い込んで言いかけたところで、不意にふっと部屋の電気が消えた。突然のことに驚き、音也は口を閉じるのも忘れ天井を見上げる。
「えっ……何々? まさか電球切れ?」
「いえ……違うかもしれません」
引っ越してきたばかりで電球切れってどうなんだ、とわたわたする音也を、トキヤは静かに否定した。真っ暗でトキヤの顔すら見えず、慣れない目はカップもテーブルも映さない。
「違うって……じゃあ……」
「停電、でしょうね。テレビのランプも、ポットのランプもついていない」
「……ほんとだ」
言われて見回してみれば、部屋の中のどこにも灯りとおぼしきものは発見できなかった。この部屋だけなのかマンション全体なのか。
外は相変わらず風がごうごう とすごい唸り声をあげていて、近くの電線が切れたと言われても納得できる勢いだった。ことり、と慎重にカップをテーブルに置いてから、音也は立ち上がって 窓へと向かう。
暗闇でも、多少時間をおけばぼんやりと物が見えるものだ。途中に障害物となるような物は元々置いていないから、真っ暗な中で歩いてもつまづくことなく窓辺へとたどり着いた。
「寮の周りって木が多いからよくわかんないけど……灯りは全然見えないや。やっぱり停電みたいだね」
「この嵐ですからね。まあ、とはいえこのマンションなら緊急時用に設備がありそうですが」
「そうだね。ちょっと待ってみよっか」
テレビもつけられないのなら、状況を把握しようがない。携帯でニュースを見ることはできなくもないが、見たところで自分たちにできるのは待つことだけだ。
ふう、と軽く息を吐き、音也はくるりと窓に背を向けた。告白は急な停電に阻まれ、テンションは一気に落ちていく。そもそも、告白なんてできる資格はないじゃないかと、音也は闇の中で薄く笑った。
そうだ。そんな資格はないのだ。なかったのだと、あの時思い知らされた。それなのに、まだ諦めきれずあわよくば、なんて思うから、さっきまで微笑んでいた女神が怒ったのだろう。
「……トキヤのカフェオレおいしい。また飲めて嬉しいよ」
「久しぶりだからでしょう」
ダイニングに戻ると、音也は気を落ち着けるようにカフェオレを飲んだ。以前と変わりなく、音也好みの甘さに調整されている。久しぶりなのにちゃんと覚えてくれている優しさに、落ち込んでいた心は少し慰められる。
「ケーキのろうそく、もらってくればよかったなあ。まだ半分以上残ってたんだけど、いらないかなと思って置いてきちゃったんだよね」
「つけたとしても、すぐに燃え尽きてしまうでしょう。そんな使い方をしては、バースデーケーキのろうそくが可哀想です」
ふふっと笑ったような気配に、音也は目を上げた。けれど当然ながらその顔はよく見えない。確かに用途としてはひどいかもしれないが、トキヤの顔を見られるのならそれでいいのに、と音也は思う。
しかしてか細いろうそくの灯りだけで向き合うというのも、想像してみれば微妙な緊張感が漂いそうで現実的ではなかった。
告白する資格うんぬんはさておき、自分が彼を好きであることは動かしようのない事実なのだ。好きな人と暗闇の中二人きりなんて、緊張するなというほうが無理ではないか。しかも自分は、さっきまで告白しようとしていたのだ。
「しかし、これではケーキも食べられませんね」
「いいよ。俺は、トキヤの淹れてくれたカフェオレが飲めれば嬉しいから」
「それ、そんなに好きでしたっけ?」
「……好きだよ、すごく。大好き」
カフェオレだけじゃなく、お前のことも、と心だけで続け、音也はカップを両手で包むとこくりと甘めのそれを飲んだ。ミルクも砂糖も多めの、トキヤなら絶対に飲まないだろう味だ。でも、トキヤだけが知っている、トキヤだけが作れるたったひとつの味でもある。
「俺の好み、覚えてくれてて嬉しい。すごくおいしいよ」
「そうそう忘れませんよ、そんな甘口のカフェオレ」
呆れたような口調でも、少し笑っているのが伝わる。忘れない、という一言だけでも嬉しくて、音也はぎゅっと温かなカップを握った。
そんなに柔らかく返されたら、また押さえが効かなくなる。優しさに、甘えたくなってしまう。駄目だとわかっていても、まだ残る繋がりに、縋りたくなる。
「じゃあ……また、作ってくれる?」
「そうですね……機会があれば」
「うん」
迷 いながら口にしてしまったその甘えを、トキヤは突っぱねず受け入れてくれた。私はあなたの給仕じゃありませんよ、とか、図々しいですねとか、憎まれ口を叩 いてくれればよかったのに、こういう時に限ってトキヤは優しい。優しくて残酷だ。だからずっと、想いを消すことができない。どんどんどんどん、好きになっ てしまう。
「……みんな、大丈夫かな」
「この分だと電車が動くまで大分かかるでしょうね。道も渋滞していましたし……」
沈む気持ちを振り切るように、音也はがらりと話題を変えた。考えたってどうにもならない。今はこうして二人でいられる時間を、大事に大事に過ごせばいい。妙な考えを起こして台無しにしては、それこそ最低の誕生日になってしまう。
「トキヤはここまで電車で来たの? タクシー?」
「地下鉄は動いていたので、途中まで電車で、そこからはタクシーです。車に乗っていても強風で揺れるくらいでしたね」
「ここも窓だけじゃなくてマンション自体揺れてるしね」
窓は相変わらずがたがたとひっきりなしに音を立て、建物は時折強い風に煽られて揺れた。木々がざわめく音も混じり、暗闇で聞くとひどくおどろおどろしい。嵐は治まるどころか勢いを増していて、そのうち折れた枝で窓が割れるのではないかという不安さえ生んだ。
まあ早乙女事務所の管轄である限り、どこかが壊れても翌日にはすっかり修理されるだろうが。
そう言うと、トキヤも確かにと同調した。そこから話題は学園時代のものに移り、あの時はこうだった、ああだったと、なんとなく会話が続いていく。そのことにほっとしつつ、微かに残る緊張感の中、音也は話し続けた。
そのうちに電気も復旧して、そうしたら改めてコーヒーを淹れてケーキを食べて、その頃にはいい時間になっているはずだ。穏やかに、静かに、誕生日は終わるだろう。
だが、三十分経っても、一時間が経っても、電気がつく気配はなかった。外の嵐も勢いを削ぐことはなく、変わらず窓や部屋を攻撃してくる。
なんとなく部屋が寒いな、と気付いたのは、カフェオレが底をついてかなり経った頃だった。
2012/04/11
停電でドキドキな音トキがテーマ……だったんです最初は。
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