はるのあらし<後編>

春とはいえ、四月頭の時期夜はまだ寒い。
今日は嵐のせいもあって基本的に気温は低く、温度はそう上げていないが弱く暖房を入れていた。だが、停電したせいでそれはとっくに消え、唯一体を温める飲み物もなくなっている。
ふるり、と身を震わせてとトキヤを見ると、彼もやや寒さを感じているのか片腕を抱くようにしてさする動きをした。
「トキヤ、もしかして寒い?」
「あ、いえそれほどでは……」
「ごめん。俺気付かなくって……。まだしばらく復旧しそうにないし、毛布かなんか、かけるもの持ってくるよ」
「ですが……」
「アイドルは体調管理も仕事のうちです、だろ?」
トキヤの声音を真似、音也は軽く笑うと立ち上がった。危ないですよ、と止めるトキヤに大丈夫大丈夫、と返して階段の方へ向かう。
「音也、本当に平気ですから! こんな暗い中階段は危険です」
「自分の部屋なんだから見えなくても大丈……うわ!」
大丈夫、という言葉は情けない悲鳴に取って代わった。階段にたどり着く前に、置いてあったゴミ箱に足を取られてどたんと倒れる。
「いって……」
「大丈夫ですか?」
「あーうん。なんかゴミ箱に躓いたみたい。でも大丈夫だよ」
「だから言ったでしょう。体調管理は仕事のうちですが、危険回避も同じです」
全く、と大きく溜息をつき、トキヤは立ち上がったようだった。動いたら危ないよ、と言う前に、音也の傍まで来たトキヤは身を屈めて腕を掴んでくる。
「えっ……」
「毛布はいいですから、おとなしくしていてください。ほら、立てますか?」
「う、うん。ありがと……」
引っ張られるまま立ち上がると、トキヤの気配がぐっと近付く。ふわりと薫るコロンと微かな息づかいに治まっていたはずの心臓はまたどくんと跳ねた。
暗闇でこんな至近距離はまずい。まずいったらまずい。かといって手をはねのけるのも反応としては一番まずい。
「あ、あのトキヤ……」
「ひとまずソファに座りましょう。かけるものは、薄いですが私のコートがあります。肩にかけるくらいなら、二人くらいは何とかなる」
「へ?」
今なんて、と聞き返す間もなく、音也は腕を引かれてソファへと座らされた。トキヤだってよく見えないだろうに、と感心したものの、そういえば部屋の造りは同じだったと納得する。いやそうじゃなくて、と音也は現状に立ち戻る。
「どうですか? ちゃんと肩にかけられてますか?」
「えっあっうん……ていうかえっと……」
隣にすとんと座ったトキヤは、自分がここまで着てきたコートを手にすると自身と音也の肩を覆うようにかけてくれた。一枚の布に包まれる感覚に、全身がかーっと熱くなる。
「少し肩が出てるじゃないですか。ほら、もっと寄らないと入らないでしょう」
「は、はい……」
ぐい、と前からのぞき込み、トキヤは音也の肩をコートに収まるようかけ直した。当然ながら音也の腕はトキヤの腕にぎゅっとぴったり密着し、薄いシャツからは体温が伝わってくる。
ちょっと待ってちょっと待って何この状況? どうしてこうなった?
ええええ、と心で叫び、音也は思わずソファの上で膝を抱えた。
さっきまではテーブルを挟んだ距離を保っていたのに、友人としての距離を保っていたのに、あっと言う間にそれは崩されてしまった。落ち着いていたはずの心臓も、ばくばくと早鐘のように鳴っている。
「あぁ、そうでした。足は痛めてませんか?」
「だ、だいじょぶ。たぶん。とっさに手ついたし」
ひどく近い場所で聞かれ、音也は身を固くして答えた。たとえどこか打っていたとしても、痛みなんてわからないだろう。それよりも、トキヤとぴったり寄り添って、息づかいまでがわかる距離にいることが落ち着かなくて、全身が熱くてたまらない。
「それならいいですが……てのひらだとしても、怪我には気をつけないといけませんよ」
「うん……ごめんなさい」
純粋に心配してくれているだろうに、自分はそれよりも邪な想いで動揺している。動揺しつつ、心底ではラッキーだと思っている。それがひどく後ろめたく、音也は目を落として謝った。ほんの僅か沈黙が落ち、今度は何故かトキヤが「すみません」と謝る。
「え? 何が?」
「いえ……久しぶりに会って、しかもあなたの誕生日だというのに、ついまた説教をしてしまって……。もうそんなことを言わなくても、あなただってアイドルとして活動してるのだから、承知してますよね」
以前の癖で叱った行為を、出すぎたものだと思ったのだろう。けれどそれは、音也にとって嬉しいものでしかない。昔通りの関係だという、証でもある。
だから、音也を一人のアイドルとして認めるだろうその言葉は、寂しく冷たく、心を抉った。突き放されるような感覚に、胸がぎゅうっと絞られる。
「……そんなこと、ないよ」
「……」
「そんなことないよ。俺、まだまだ全然自覚足りないし、トキヤに怒られるの、嫌じゃない。謝ることなんて、ない」
「音也……」
「だから、謝らないでよ。トキヤはいいんだ、それで」
ね、と顔を上げ、音也は笑った。さっきよりも随分と近付いているせいか、なんとなくだが表情は見える
「はい」と言いながら、トキヤは少し困ったような顔で小さく笑んだ。あまりにも可愛いそれに、ふわりと頬が熱くなる。
そんな風に笑うのは、自分の前でだけだ。自分の前だけ、だった。
でも、今は違うのだろうか。心のガードを解いて、感情を垣間見せる表情を、自分以外の誰かも見ていたりするのか。
そんなのは嫌だ。嫌だけれど、そう言えるような立場ではない。なることも、望めない。
「……ね、手、繋いでいい?」
「え?」
「そのほうがもっと暖かいよ。トキヤ結構冷え性じゃん。俺体温高いからさ」
子供じみた独占欲だ。こんなことをしても、何かが変わるわけではない。それでも、もっと近くに寄り添いたくて、音也はトキヤの腕を絡めるようにして手を握った。
「やっぱり冷たい。ほんとはずっと寒かったんじゃないの?」
「……そうでもないですよ。ほんの少し前からです」
嘘つきだなあ、とその優しさに苦しく笑い、音也はトキヤの手をより強く握った。
大きいけれど、細い指、形のいい爪を、温める仕草を装って撫でる。ものすごく狡い、いやらしい行為だ。でも、仕方ない。
トキヤが許すから、甘やかすから、押さえようと頑張っていた想いも、衝動も、ゆらりと揺らいで流れ出てしまう。
いや、それはひどく身勝手な言い訳だ。捨てきれない理由をトキヤのせいにして、気付かれないのをいいことにこうして欲を満たしている。
「ギター……」
「え?」
「ギターを、弾いてたんですか? ここに置いてありましたけど」
「あ、あぁ、うん。そう」
ソファに座る際、置きっぱなしのそれに気付いたのだろう。今は避けて端に寄せたそれに、トキヤが目を向ける。
「なんか手持ちぶさたになって、弾いてたんだ。トキヤの曲」
「私の?」
「うん。トキヤの卒業オーディションの曲。俺、あれ好きなんだ」
すっと目を閉じ、音也は鼻歌でそのメロディを口ずさんだ。瞼の裏には、あの日ステージで歌っていた、きらきらと輝くトキヤの姿が浮かぶ。
伸びやかに、情熱的に、抱える感情を音に乗せ、歌に乗せ、トキヤは持ちうる全てであの曲を表現した。ずっとずっと、抱え持っていただろう鬱屈も解放して、生き生きと歌っていた。HAYATOという呪縛から逃れられた喜びが、そこにはあった。
色々な意味で、あれはトキヤにとっての卒業だったのだと思う。それは間違いなく喜ばしいことで、けれど音也にとっては、少し苦しいことでもあった。
ト キヤがHAYATOだったと世間に知らされたのは、そう遠くない、二ヶ月ほど前のことだ。トキヤが自ら、HAYATOとして出演しているレギュラー番組で 公表した。早乙女学園の学園長である―今は社長だが―シャイニング早乙女はもちろんそれを知っていて、その上で彼を学園に誘ったのだという。
歌を歌いたくて、けれど事務所はそれを許してくれなくて、だから一ノ瀬トキヤとして一から始めたかったんだと、トキヤは音也に話してくれた。嘘をついていてすみません、騙していてすみませんと、謝ってもくれた。
トキヤがHAYATOだったことは驚きだったし、隠されていたことも、正直を言えばショックだった。だが、それよりも何よりも、気付かなかった自身に失望した。
同室で一年近くも一緒に生活をしていたのに、まるで気付かなかったのだ。好きだ、なんて言いながら、彼の抱える苦しみも、辛さも、知らなかった。
こんな相手に告白されたって、まともに取り合うはずがない。振られて当然じゃないかと、呆れ果てて泣きたいくらいだった。正確に言えば、振られたというよりも、ないことにされた、が正しい。
トキヤを好きだと気付いたのは秋の始め頃で、本当はずっと隠しているつもりだった。早乙女学園は恋愛禁止だったし、そもそも男に好きだと言われても、トキヤだって困るだろう。まだ半年以上一緒に生活しなければならないのだ。ぎくしゃくしてしまえば、部屋にも居づらくなる。
それでも日々が過ぎ、好きな想いが募っていくと、堪え性のない性格は抱えていることに限界を訴え始めた。トキヤと過ごす時間が増え、目にする表情が増えるにつれ、かけていた鍵は緩んでいき、冬を迎えたある日、それはとうとう音もなく壊れたのだ。
俺、トキヤが好きだ、と気付いた時には口にしてしまっていた。
だが、それに対するトキヤの答えは、「ありがとうございます。私も好きですよ」という、実に簡潔な定型文句で、それ以上の言葉を拒絶するものでしかなかった。
彼の言う「好き」は、無論友人として、という意味だ。つまり、告白はなかったことにされてしまった。まともに取り合うことすら、彼はしてくれなかったのだ。
それまで薄く消えかけていた壁が急に復活したかのような、繋がっていた心が切断されたような、冷え冷えとした想いを抱いたのを覚えている。
どうして、とその時は思った。受け入れてくれるとまでは思っていなくても、そんな風にかわされるとは思っていなくて、人の心を大事にする優しさを持っている人が、することではないとも思った。
けれどそんなの当然じゃないかと、その時音也は思い知ったのだ。
彼の全てを知っていると思い上がって、彼の見えない素顔は自分だけが知っていると思い上がって、その実自分は何も見えていなかった。何も、知らなかった。
好きだと言える資格なんて、ひとつも持っていなかった。
だから、言えない。どんなに好きでも、言えるわけがない。今も変わらず好きだなんて台詞、滑稽なだけだ。
「……よく、覚えてますね」
「覚えてるよ。忘れない。忘れるなんて、できない」
「……」
多分一生、忘れられないだろう。あの日、音也は真の意味で失恋をした。そして改めて恋をしたのだ。未来のない、希望なんて持ちようのない苦しい恋をして、今もしている。
叶わないことは承知の上だ。今ここで好きだと言ったとしても、優しい彼を困らせることにしかならない繋いでいる手を、離すことにもなるだろう。
だから今だけでいい。今日だけでいいから、独占させてほしい。一番傍に、いてほしい。それくらいなら、許してもらえないだろうか。今日は一年に一度しかない誕生日なのだから。
「ね、このまま夜中になっても復旧しなかったらどうしようか」
「……どうもこうも、待つしかないでしょう」
「そうだけどさ。そしたら、ここに泊まっていきなよ、トキヤ」
「え……」
「だってまだ外すごい嵐だし、いくら近くって言っても何か飛んできてトキヤが怪我したら嫌だし。だったら朝までここにいたほうが安全じゃん」
妙な勘違いをされないようにと、音也は先手を打って理由をあげつらねた。別に何をしようというわけではない。そんなことは、望まない。ただもう少し、トキヤと二人だけの時間を過ごしたいのだ。
「ベッドはひとつしかないけど、それはトキヤが使えばいいよ。俺はこのソファで寝るし」
「……部屋の主をさしおいて、私がベッドですか、」
ふっと笑って、トキヤは音也の手をほんの僅か強く握った。なんてことのない仕草なのに、どきりとしてしまう自分が情けない。
自分で誘っておいて、もし本当にそうなったら、例えここで寝ようとしても朝まで眠れないだろう。今だって、心臓は聞こえるのではないかというくらいどきどきと大きく鳴っている。
風の音でかき消されているから聞こえないだろうけれど、密着した腕が胸に振れればきっと伝わってしまう。だから腕を絡めながらも、そこだけは触れないように気をつけていた。
できることなら、すぐ傍にあるその体を抱き寄せたい。ほんの僅かの隙もないくらい、抱きしめたい。彼の作った詩にあるように、何もかも捨ててそうしてしまえたらと、そんな妄想をも抱く。
「明日も仕事だろ? 俺は昼からだから、トキヤが帰った後も少し寝れるし」
「音也、あなたもしかして……」
「え」
「……怖いんじゃないですか? 一人になるの」
まさか邪な想いがばれたのか、とひやりとしたが、そうではないようだった。おかしそうに笑うトキヤにむぅ、と頬を膨らませ、「怖くなんてないよ」と言い返す。
いくら嵐がひどいからといって、暗闇だからといって、一人になるのが怖いわけではない。けれど違う意味では、多分怖いのだろう。
トキヤとの関係を壊したくない。このままでいい。そう自制しようとして、でもこの距離が、届く息が、声が、体温が、理性をぐらつかせる。
まるで今日の嵐のように、激しくなったり弱くなったり、恋心は煽られて不安定に揺れた。
「まあいいでしょう。そうですね。もし当分戻る気配がないようでしたら、お願いします。ですが、ベッドはあなたが使いなさい。さすがにそこまで図々しいことはできません」
「じゃあ、一緒に寝る? セミダブルだから、ぎりぎり二人でもいけるよ」
殊更明るく、音也はそんなことを言った。言葉だけ取り上げれば、大胆な台詞だったろう。本気でそう思っていないから言えることだ。うんと頷くはずがないとわかっているから、言えることだ。
それはちくりと胸を刺したが、それでいいんだと音也は言い聞かせた。こんな軽口を叩ける間柄なのだと、自分にも彼にも意識させることができる。
「誕生日を迎えた割に、今日は随分と子供のように甘えたことを言いますね」
「誕生日なんだから、たまにはいいだろ」
「一年に一度の特別な日、ですか。なら、それでもいいですよ」
「えっ?」
「今日だけは特別、甘やかしてあげます。狭くて寝れないなんて、文句は言わないでくださいね」
まさかのトキヤの返答に、音也は絶句して固まった。薄闇の中、ぼんやりと見える彼の横顔を思わず凝視する。
「なんです。自分で言ったんでしょう。冗談なら冗談だと早く言いなさい」
「だって……だってまさか、そう言ってくれるなんて思ってなくて……」
音也の視線に気付いたのか、トキヤは気まずそうにふい、と顔を背けた。僅かに離れてしまいそうな体を追い、音也は無意識にぎゅっと手を握って身を寄せる。
うっすらと赤くなっているように見えるのは、気のせいなのだろうか。そう思いたいから見えるだけで、実際は違うのか。
赤くなっているとしても、それは音也の言葉を真に受けたことが恥ずかしいだけなのかもしれない。それでも、弱い心はその微かな期待にぐらりと揺れた。
どうしてこんな我儘を受け入れてくれるのだろう。冗談じゃありませんと、いつものように軽くあしらうことをしなかったのか。
そんな風に甘やかしたら、優しくしたら、ありえないと何度も言い聞かせたはずの欲が頭をもたげてしまう。もしかしたら、と、勘違いしそうになる。
禁じていた言葉を、口にしてしまいそうに、なる。
じわりと手のひらに浮いた汗も気にせず、音也はトキヤの手をより強く握った。どきどきと、明るければ服の上からでもわかるくらい心臓は高鳴って、体温は急上昇して、頭の中はぐるぐるといろんな感情が巡ってまざり、理性を突き崩していく。
駄 目だよトキヤ、お前がそんな風だから、俺はすぐつけあがっちゃうんだ。そんな資格なんてないって何度も言い聞かせたのに、このままでいいって気が遠くなる くらい考えたのに、お前のたった一言で、小さな仕草で、すぐにぐらついちゃうんだ。好きだって、誰にも渡したくないって、言いたくなっちゃう。
「どうして……」
「え……?」
「どうして、そんなに優しいんだよ。どうして俺を、そんなに甘やかすの? 狡いよトキヤ……」
「……」
「そんなの、狡い」
泣きたくなるような気分で、音也は抑えきれない思いを吐き出す。
違う。狡いのは自分だ。諦めなきゃいけない、好きなんて言う資格がないと言いながら、これ以上は望まないなんていいながら、結局は求めている。欲しいと、願っている。だから彼の言葉一つ一つに一喜一憂してしまうのだ。
それはトキヤのせいじゃない。諦めの悪い、未練がましい、自分の恋心のせいだ。
「ごめん。違う。そうじゃないんだ。トキヤは何も、悪くない」
「音也……」
「トキヤは悪くない。ただ俺が……俺が、馬鹿で……。とにかく違うんだ。ごめん何言ってんだろ俺」
このままこうしていたら、きっと我慢のできない自分は告げてしまうだろう。それが怖くて、音也はすっと身を引く。離しがたくてたまらない、大好きな人の手を握る指を、ゆるりと緩める。
そうして完全に離れようとした時、荒々しい風の音の中、それと違う音が部屋に響いた。音だけではない。微かに揺れる震動が、体にも伝わる。それと同時に、すぐ傍らの体がびくりと揺れた。
一瞬の間を置き、音也はそれが何の音なのかを知る。ブブブブ、と聞こえる鈍く重い音と震動は、ひどく近くから……自分たちを覆っているコートから、伝わった。
「これって……携帯……?」
「――」
「え……でも、だって携帯はバッテリーが切れたって……」
ここに来た時、トキヤはそう言っていた。バッテリーが切れていて、だからメールを見ることができず、中止と知らずに来てしまったのだと、音也はそう思っていた。けれど今鳴っているのは、間違いなくトキヤの携帯だ。そのはずだ。
「今のトキヤの携帯だろ? そうだよね?」
「っ音也……」
返事を待たず確認しようとコートに手を伸ばした音也を、トキヤが細い声で呼んだ。その反応に、音也はポケットに入れかけていた手を止める。
それだけで十分だ。鳴ったのはトキヤの携帯で、バッテリーが切れていたというのは嘘で、中止のメールを見ていないというのも、嘘だと、今の一言だけでわかる。
「トキヤ……どうして……」
「……あなたが……一人きりでいるだろうと、思って。誕生日に一人なんて、寂しいでしょう。だから……」
「だから、来てくれてんだ?」
早口でまくしたてるトキヤを遮り、音也は静かに問いかけた。離れる寸前だった手を握り直し、こちらを見ようとしないトキヤをじっと見つめる。
嘘をついていたのは、本当にそれだけなのかもしれない。トキヤは優しいから、一人きりで過ごす自分を思って、自分だけでもと来てくれた。そこに矛盾はひとかけらもない。ないけれど、それならどうしてそんなに慌てるのだろう。どうして隠したりなんて、したのか。
照れくさいから、気恥ずかしいから、押しつけがましいから。挙げようと思えば、多分いくらでも理由は出てくる。
でも、握る手に触れる汗は自分だけのものではなくて、言い訳をするその声は微かに震えていて、闇の中に映る白い肌は、暗くてもわかるくらい赤く染まっている。
勘違いするなと言われても、つけあがるなと言われても、そんなのは無理だ。堰き止めるのに精一杯だった想いは、もう止めようもなく溢れていく。好きだと、大好きだと、それだけが頭を占めていく。
「そのためにわざわざ……こんな嵐の中?」
「そう、です」
「本当に?」
「……」
「ねぇトキヤ、本当に、それだけ?」
逃げようとしているトキヤを追い、音也は握る手を強く引き寄せた。その拍子に体が揺らぎ、肩と肩がぶつかる。首を伸ばせばすぐそこに、トキヤの顔がある。
どきどきと鳴る心臓の音は、自分だけのものなのだろうか。そこには、彼のそれも混ざってはいないか
「それだけ、です……」
「じゃあ、こっち向いてよ」
「……」
「こっち、見て」
よ うようといった体で声を押し出すトキヤに、音也は柔らかく強請った。トキヤ、と重ねて促すと、背けられていた顔がゆっくりとこちらに戻される。それでも目 を合わせることは難しいのか、トキヤは音也を見ようとはしなかった。これ以上ないくらいに近付いた顔の中で、長い睫が一際綺麗に映る。薄い唇から漏れる息 が触れて、甘やかな空気が、そこに生まれる。
「そのままで、いて」
「おと……」
「もう訊かないから。そのまま、じっとしてて」
こんなこと、許されない行為だ。許されてはいけない、行為だ。
それでももう、そんなことはどうでもよかった。全部を失っても構わない。どんな罰が下っても構わない
だってどうしたって自分は彼が好きで、彼以外好きになんてなれなくて、欲しいと思うのも、彼だけなのだ。
可能性がゼロから1になっただけだとしても、今この一瞬を、時間を、空気をこそ、失いたくない。
「嫌なら逃げて」
がっちりと腕を拘束しておきながら、音也は狡く囁いた。ふるりと小さく睫が揺れ、次いで閉じる動きをする。
もう止められない。止める気なんてない。これを逃したら、多分絶対、後悔する。
じっと動かず待つトキヤに目を細め、音也は唇を寄せた。緊張に少し震え、近付く吐息に胸を高鳴らせ、ゆっくりと距離を縮めていく。
そうして静かに重なろうとした唇は、けれどその寸前で止まることになった。ぱっと音もなく、暗闇だった部屋が明かりに満たされたからだ。
「えっ」
「あ……」
互いにはっと目を開き、音也はトキヤと共に天井を見上げた。どうやら電気が復旧したらしく、部屋の全ての電気が元通りについている。
「電気、戻ったんだ」
「そう、みたいですね」
見 上げて呟いてから顔を戻すと、ありえないほどの至近距離で目がばちりと合った。こんな近くでトキヤを見たことなんてなくて、綺麗なその顔があまりにすぐそ こにあるものだから、音也はうわああと心で叫び、反射的に飛びのいてしまう。つい今キスをしようとしていたくせに、その時とは比較にならないくらいの動揺 が全身を襲った。
「えっとあのその、ごめ……」
「……」
かあああ、と音がするくらいの勢いで、首から上が沸騰したように熱くなった。
せっかくのチャンスを前に何をしてるんだ、と思えども、仕切り直していざ、なんてできる気がしない。あれは暗かったからできたことで、勢いでできたことで、こうして明るくなってしまった今、理性も戻った状況でなんて、絶対に無理だ。
て いうか俺ちゃんと好きって言ったっけ? 言わないまましようとしてたなんて勢いづくにもほどがあるっていうか、トキヤが受け入れようとしてくれてたのも錯 覚だったのかも。逃げようとしてはなかったと思うけど、でも目を瞑った後だとわかんないし、ほんとは逃げる寸前だったかもしれないし。
「あの、音也……」
「はっはいぃ! すみませんごめんなさい今の忘れてください!」
ざざっとソファの隅に正座をし、音也はよくわからずひたすらに謝った。
ああもうどうしていいかわからない。誰か助けてくれないだろうか。今の全部をなかったことにしたい。
そんな思いが女神様に通じたのかどうか。だらだらと流れるような汗をかいてぎゅっと拳を握ったところで、ピンポーン、と聞き慣れたインターフォンの音が響く。
「おーい音也! いるんだろー?」
「え……翔?」
聞こえる声は、翔のものだった。どうして、と顔を上げると、トキヤも驚いた顔で音也を見る。そうしているうちに、今度はどんどんどん、とドアを直接叩かれる。
「あ、もしかしてさっきの携帯」
「……翔から、ですね」
同時に思いついたらしいトキヤは素早くコートから携帯を出し、画面を確認すると頷いた。どうやら今から行くという内容のメールだったようだ。
「ごめん翔、今開けるから!」
「おー。頼むわ」
慌てて立ち上がり、音也は玄関へと走った。扉を開くと、そこには翔だけでなく那月やレンもいる。
「今ちょうど下で会ったんだよ。ベーターが動かなくてどうしようかと思ってたけど、動いて助かったぜ」
「でもどうして……今日は中止だって……」
「一人きりのバースデーなんて寂しすぎるだろう? オレなら耐えられない。だから来れるようなら来ようって思ってね。で、みんなも同じことを考えてた、と」
「音也くん、僕ちゃんとケーキ焼いてきたんですよぉ」
「それはやめとけ。マジでやめとけ」
わいわいとそんなやりとりをしながら、三人は部屋へと入ってきた。二人だけの時はあんなにも風の音が大きかったのに、人数が増えるとそれもかき消えてしまう。
「あれ? なんだトキヤ来てたのか」
「おやおや、一人抜け駆けとはさすがだねえイッチー」
「抜……人聞きの悪い。私のほうが少し早く着いただけでしょう」
レンの言葉にすっと眉根を寄せ、トキヤはふいと顔を背けた。まだ少し赤みの残る頬に少しどきりとしながらも、もうその理由を訊くことも、さっきの距離まで近付くこともできない。
「後から真斗くんも春ちゃんたちも来てくれるそうですよ〜。みんなが揃ったらケーキ食べましょう!」
「いや、だからな那月、」
「じゃあお茶用意するから、みんな座っててよ」
「それなら私がします。あなたこそ、主役なのだから座っていなさい」
キッチンに向かおうとする音也を引き止め、トキヤはそう言って立ち上がった。音也の顔を見ようとはせず、トキヤは背を向けて歩いていく。
「……もしかして、お邪魔だったりしたのかな?」
「えっ全然! そんなことないよ」
思わずトキヤを見送っていると、背後からそっとレンがいたずらっぽく囁いた。どきんと心臓を鳴らしつつも、音也は笑って誤魔化す。レンは誰より恋愛経験が豊富だから、トキヤとの間の僅かな空気に勘付いたのだろう。
「そうかい?」
「うん……。そんなこと、ないよ」
お茶の用意をしてくれているトキヤから視線を外し、音也は苦く繰り返した。
そうだ。そんなことはない。あれは自分が勝手に勘違いをして、暴走して、馬鹿な真似をしそうになっただけだ。トキヤ自身が言ったように、皆と同様、一人で誕生日を過ごすのは寂しいだろうと、来てくれたのだろう。
季節はずれの春の嵐に、きっと自分も惑わされた。
「しっかし誕生日に災難だったよなー。停電までして大変だったろ」
「道中どうなるかと思いましたけど、お祝い間に合ってよかったです」
「うん。ありがとう。来てくれてすっげー嬉しい!」
それぞれソファに腰を落ち着け、皆口々にここまで帰るまでは大変だったと話し出す。そうこうしているうちに、用意ができましたよ、とトキヤが五人分のカップを運んできた。音也の前には、トキヤがプレゼントしてくれた新しいカップに入ったカフェオレが置かれる。
とりたてて、深い意味はないのだろう。いつものカップはひびが入っているし、せっかくなら新しいもののほうがいい。それだけだ。
そう思っても、トキヤがそれを選んでくれたことが嬉しかった。それだけでいいと、温かな優しい甘みに音也は思う。
確かに災難だったけれど、最悪な誕生日になるかと思ったけれど、トキヤと二人の時間を過ごせて、トキヤのカフェオレをまた飲めて、こうして皆も集まってくれた。だから間違いなく、今日は最高の誕生日だ。
その後、一時間も経たない内に後から着いた三人も合流し、少し遅れたバースデーパーティは開かれた。那月のケーキを食べる食べないの攻防が繰り広げられたり、真斗の用意したプレゼントである書道セットに笑ったり。
昔と同じメンバーで、昔と変わらない空気の中、楽しい時間を過ごす。トキヤとも、不自然なところはなく他愛ないやりとりができた。何も変わらない。今までと同じだと、ほっと安堵しつつ寂しさも感じる。
本当に、何も変わらないのだろうか。本当は、何か変わったのではないか。でも、それを知る術はもうない。勇気も、ない。
楽しい時間はあっと言う間に過ぎ、パーティは終わりを迎えた。帰り支度をして出ていく皆を、音也は玄関で見送る。
「遅くまでお邪魔しました。明日、寝坊するんじゃないですよ」
「わかってるよ」
一番最後に玄関に残ったのはトキヤだった。荷物の中には、音也が持っていてと強請ったカップが納められている。
「マグカップ、ありがとうトキヤ。大事にするね」
「……ええ。私も、ありがたく使わせていただきます」
ほんの僅か間を置いてから、トキヤは優しく笑んだ。呆れるほど簡単に胸は鳴り、音也はうん、とだけ言って頷く。じゃあまた、と出ていく彼を引き止めたい思いはあれど、そんなことができるわけもなかった。
ぱたんと閉じられた玄関の音に顔を上げても、そこにはもうトキヤの姿はない。
じゃあ、また。
それはいつになるのだろう。また、あんな風に二人になれることはあるのだろうか。なったとしたら、どうなるのだろう。

ごうごうと、外はまだ風と雨に荒れている。
明日になれば、嵐は綺麗に立ち去っているはずだ。けれど胸生まれた小さな嵐は、当分消えないかもしれない。
好きだよ、と紡いだ呟きは、どこにも届かず風の音に飲み込まれた。


嵐が去って本当の春が訪れるのは、まだもう少し先のことになる。

2012/04/11
もっと可愛いちょっとだけラブな話の予定が……。
あんまりお祝いになってないんだけど(笑)
音也誕生日おめでとう!!!
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