星降る夜に君に恋する(途中部分抜粋2) |
「お帰りトキヤ! ねぇねぇ聞いてよ! 今すっげーうまく弾けたんだ!」 「……」 部屋に入るなり、ベッドでギターを抱えていた件のルームメイトが嬉しそうにトキヤを迎え入れた。まだ起きてたんですか、と言うのも毎度のことになりつつあり、トキヤは「ただいま帰りました」とだけ返して背を向ける。 最初はそれすらも返していなかったのだが、ここ最近帰宅すると音也の「お帰り」が待っていて、仕方なく言うようになった。 無視するのはさすがに大人気ないし、礼には礼を尽くすものだ。ただ、その後に続く会話に付き合う義理はないので、トキヤは上着を脱いで荷物を置くと、さっさと着替えを持ってバスルームへ向かう。 「あれっもう行っちゃうの? ま、いっか。後で聞いてもらおっと」 「……」 トキヤからの反応があろうがなかろうが、音也は全く気にせず勝手なことを呟いている。そんなもの聞くわけがない、と心で吐き捨て、トキヤはバスルームのドアを閉めた。 寮の部屋割りを考えたのはシャイニング早乙女だと聞いたが、どんな意図の元なのか、これについてだけは問いただしたい気分だった。 マイペースで馴れ馴れしく、空気も読めない。これだけこちらがわかりやすく関わりを拒否しているのに、音也はまるで懲りずに話しかけてくる。しかも嫌な顔ひとつせず、満面の笑みでだ。 朝 も夜も、顔を合わせれば笑顔で挨拶をしてきて、部屋にいる間は日々のくだらないことを勝手に話して楽しそうにしている。こうなってくると意固地になって距 離を置こうとしている自分のほうがひどく狭量に思えて、トキヤもたまには返事をするようになった。そうしないとずっとまとわりついて話し続けてくるのだか ら仕方ない。 それにしても、ここ最近はどうしてこう遅くまで起きているのか。元々そう夜更かしする性質ではないらしく、トキヤが遅く帰る日はほとんど先に寝ていた。そのほうが顔を合わせずに済むし気も楽だと思っていたのに、今では息をつく間もない。 風呂に入っている間に寝てくれればいいのに、とひどいことを考えながら、トキヤは脱衣籠に脱いだシャツを入れた。そうして洗面台まで近付き、びちゃり、と濡れる足裏に顔をしかめる。 「……濡らしたら拭いておけとあれほど……」 顔をしかめたまま見てみれば、足拭きマットの周辺は当たり前のように濡れ渡っていた。音也が使った後は高確率でこれだ。何度も注意しているのに、しばらく経つとまた繰り返す。 机に向かって勉強をすること自体苦手のようだから、物事を覚える能力が著しく低いのだろう。それはどうでもいいことだが、疲れて帰ってきていざゆっくり風呂に入ろうとしたところでこう不快な目に合うと、抑えることも難しい。 「音也、」 「わあ。裸でどしたのトキヤ。忘れ物?」 「忘れているのはあなたでしょう」 がちゃりとドアを開け低く呼ぶと、何もわかっていない音也は脳天気に目をぱちりとさせた。そういえば上半身は裸だったと思い出し、一度戻ってシャツに腕だけを通す。 「床、びしょびしょじゃないですか。使った後はちゃんと拭くよう、何度言えばわかるんです」 「あっごめんごめん。忘れてた! でもどうせまた濡れるんだからいいじゃん」 「そういう問題ではありません。不快です。ちゃんと拭いてください」 「ええ〜。もうトキヤってば神経質だなあ」 「あなたが無神経なんです」 はあ、と大きな溜息をつき、トキヤは額を指で押さえた。ぶうぶう言いながらも、音也はベッドから降りてバスルームまでやってくる。 詳細は聞いていないし聞くつもりもないが、施設で共同生活をしていた割に、音也の行動には他人への気遣いがさっぱり見受けられなかった。 恐らく施設でもこの調子で、注意されることに免疫でもついてしまっているのだろう。だからさっきのようにトキヤに怒られても、落ち込むような様子を見せたことはない。 とはいえ、ごめんごめんと謝って、一応素直に言うことを聞くことは聞くので、まあそこはまだしも救いがあるか、とトキヤはなるべく前向きに考えることにした。そうでもしないと、どうでもいい部分で神経をすり減らして参ってしまう。 「それにしてもさぁ、」 「なんです……なっ何を……!」 大人しく床を拭いていたかと思えば、音也は監視するように立っていたトキヤの腰を両手でがちりと掴んだ。不意に体に触れられ、トキヤはびくりと身を引く。 音也は会話だけでなくその行動も唐突で、当然のように距離感もなかった。気を抜くとすぐ傍まで来ていて、何の躊躇いもなく接触してくる。 「なんですか急に……離してください」 「いや、トキヤって俺より背高いのにマジで細いよなあって思って。体重いくつ? 俺今60!」 人の話など聞かず、音也は立ち上がるとずい、と顔を寄せてきた。いくつでもいいでしょう、と言おうとしたものの、相手よりも自分のほうが軽いことにやや気をよくする。 スタイルの保持はトキヤにとって歌のレッスンと同等に重要事項で、食事はカロリー計算をして作っているし、摂取し過ぎた時はジョギングをして調整もしているのだ。何も考えず好きなものを好きなだけ食べて不摂生している人間に、スタイルで負けるわけがない。 「59ですが、別段細いわけではありません。これがベストなんです」 「ええーでもほっそいよ! 腰とかほら、掴めるじゃん」 「……拭き終わったなら出ていっていただけますか? 早く風呂に入りたいんですが」 「あーごめんごめん。そっかートキヤは体重59なんだー」 尚もしつこく掴んでくる手を強引にはがし、トキヤは顔をひきつらせて言い放った。謝ってはいるものの、その声も顔も妙に嬉しそうで、反省の色が見えない。 「何をへらへらしているんです。それと、他人にそのことを言い触らしたりしたら許しませんよ」 「しないよそんなこと! だってせっかくトキヤのこと一個知れたんだしさ」 「は?」 「今まで知らなかったことお前のこと、知れたのが嬉しいんだ。だから誰にも言わないよ。俺だけの秘密情報」 にこっと本当に嬉しそうに笑い、ゆっくり温まってね、と音也は足取りも軽くバスルームを出ていった。何がそんなに嬉しいのか、トキヤには理解できない。 いや、元より彼の全てがトキヤには理解不能だった。これだけ邪険にされてもいつも笑顔で、仲良くしたいのだと全身でぶつかってくる。何度も何度もめげずに繰り返されるそれは、いっそ感心するほどだった。 その一方で、底のない明るさと裏のない笑顔に、胸の奥がきゅうっと苦しくなる。音也を見ていると、もう一人の自分がそこにちらくのだ。素顔を偽って演じている、いつも笑顔で明るいHAYATOの姿が、そこに重なる。 こんな人間がいるわけがない。HAYATOは所詮作られたキャラクターだ。それに縛られて、自由に歌も歌えなくて、苦しくて苦しくてもがいている中、一から始めてみないかと誘われたのがここへ来るきっかけだった。 それなのに、いざ来てみればルームメイトがHAYATOそのもののような男で、ことあるごとに自分が否定してきたものは何だったのかと突きつけられる。ここに今いること自体否定されている気がして、だから余計、トキヤは音也が苦手だった。 くっと眉をしかめ、トキヤはシャツを脱ぎ捨てた。あれこれしている間に時間は過ぎ、ゆっくり湯船に浸かっている余裕はなくなっている。明日も早いし、さっさとシャワーを浴びて寝てしまうのが得策だ。 心の底にこびりついた暗い感情を洗い流すように、トキヤは熱めの湯を全身に浴びた。当然ながら、そんなことをしてももやもやとした心が晴れるわけもない。流れる湯に目を閉じれば、思考はまた音也へと戻った。 クラスの人気者で、ムードメーカーで、誰とでも仲良くなれる、明るく爽やかな、好青年。 現実にHAYATOが存在していたら、こんな風なのだろうか。もし彼が自分であれば、何の違和感もなくHAYATOとして生きていけたのだろう。 なりたいと思っているわけではないのに、そう思うとどこか悔しい気持ちにもなる。彼はAクラスで、自分はSクラスで、技術も素質も比べるまでもなくトキヤのほうが上だ。そうとわかっているのに、焦りに似た苛立ちが胸を占めた。 どうしてそこまで彼を意識するのか。その理由は、薄々だが自分でもわかっている。わかっているけれど、認めたくないのだ。認めたくないから、これ以上彼を知りたくない。近付いて、欲しくない。 それなのに、音也は日に日にトキヤに近づいてくる。何も知らないのだから当然だが、冷たくあしらっても無視をしてもまるで効果がない。ここまで何もかも効かないとなると、さすがに策は見つからなかった。結局適当に受け流すのが、一番楽で妥当なのかもしれない。 幸い相手はそう頭がいいわけではないから、トキヤがまさかHAYATOでは、なんて疑問を持つことはないだろう。意識しすぎて自らストレスを抱えては、これから一年が思いやられる。 根本的な解決には至らなかったが、その発想の転換は少しトキヤの心を軽くさせた。一日の疲れをシャワーで流し終え、用意していたパジャマに着替える。 音也はまだ起きているのか寝ているのか。どちらにせよ早々にベッドに入ってしまえば無駄に話しかけられることもないだろう。 「あ、トキヤ。ちょうどよかった」 「はい?」 バスルームを出ると、音也はどこかに出掛けていたのか部屋へ戻ってきたところだった。何がちょうどいいのか、と問いはせず眉をひそめるトキヤに、音也から何かが投げられる。 「はいこれ! トキヤにあげる」 「は? ちょ……いきなり何を……」 ひょい、と軽く放られたそれを慌てて両手で受け止め、トキヤはひやりとした感触に目を見開いた。何を投げたのか手の中を見れば、ミネラルウォーターのペットボトルが収まっている。しかもトキヤが常飲している銘柄のものだ。 「風呂上がりで喉乾いてるだろ。これはお詫びで、俺のおごり!」 「……それは、どうも」 思いもかけないお詫びに面食らい、トキヤは小さく礼を言った。このメーカーのものは部屋のある階の自販機にはなく、寮の食堂まで行かないと買えないものだ。そう遠出というわけではないが、お詫びとしてわざわざそこまでして買ってきてくれたことには礼を言うべきだろう。 好 んでいる銘柄まで把握しているとは思っていなかった分、トキヤはほんの少しだけ彼を見直した。見ていないようで見ているのか、つい先日も、音也はトキヤの 睡眠を気遣う発言をしている。ただ闇雲に仲良くなろうとしているわけではなく、ちゃんとトキヤを見ているのだと、その時も少し驚いたものだ。 それはそれとして、こんなに素っ気ない、好意のかけらも示さない人間に何故そこまでできるのか、やはりトキヤにはわからない。 「ですが、これならまだ買い置きが一本あったはずで……」 「うん。それ俺がさっき飲んじゃったから」 「はい?」 「だからお詫び」 ぺろりと舌を出し、音也はいたずらっぽく笑った。お詫びとはバスルームの件ではなく、勝手にトキヤのものを飲んだお詫び、というわけだ。 「だとしたら、おごりでもなんでもないじゃないですか」 「あ、気付いちゃった? さっすがトキヤ。あったまいい」 真実に呆れ果てて顔をしかめると、まあ買ってきたから許してよ、と両手を合わせ、音也は拝むように謝った。 結果的に損はしていないし、反省はしている。その反省を行動にも表しているのだから、これ以上怒るのもそれこそ大人気ないだろう。こうもあっさり罪を告白して謝罪されてしまえば、まあいいいか、という気分にもなる。 なんだか毒気を抜かれた心地で、トキヤはペットボトルを持ったままベッドへと座った。トキヤに渡したことで満足したのか、音也もベッドへと入り布団に潜り込む。 「俺先に寝るね。トキヤも早く寝なよ」 「はぁ……」 「じゃあおやすみ」 「お……」 つられておやすみなさい、と言いそうになり、トキヤはそれを寸前で飲み込んだ。おはようとただいま程度までなら返していたが、これに関しては少し抵抗があって口にしたことはなかったからだ。 眠りにつく前にかける優しいその言葉は、自分には似合わない。自分たちの関係には、そぐわない。家族くらいにしか、言わない言葉だ。それなのに、音也のテンションにつられて勝手に口が動いた。自然に、動いてしまった。 これではまるで、本当に仲の良い友達みたいではないか。そんなことはない。そんなはずは、ない。 何故だか急に恥ずかしくなり、トキヤは冷たいミネラルウォーターを飲んで火照りを静めた。は、と息をついてから音也のベッドを見やったが、トキヤの言いかけたそれには気付いていないようで、ほどなく寝息が立ち始める。 それにほっと胸をなで下ろしてから、トキヤは苦く笑った。おやすみくらい、ここまで意識することではない。ただの挨拶なのだから、返してもおかしなことでないのだ。ここまでこだわっている自分のほうが、余程おかしいではないか。 ころり、と手のひらでペットボトルを転がし、トキヤはそれを握り締めた。ひやりとした冷たさが、揺れる感情を少しだけ冷静に戻してくれる。 勝 手に人のものを飲んだことはよくないことだが、音也はちゃんとこれを買ってきてくれた。すぐ傍の自販機にある適当な飲み物で済ませることはできただろう に、そうしなかった。それは紛れもなく、彼の誠意だ。誤魔化そうとせず罪を告白し、まっすぐに謝罪した。お詫びとして、これを、買ってきてくれた。 無神経だし空気は読めないし図々しい男ではあるが、悪い奴ではない。悪い奴、という表現が最も似合わない男とも言えるだろう。 わかっている。音也自身は、何も悪くない。ただ、自分が過剰に意識しているだけだ。勝手にHAYATOと重ねて、苦手意識を持って、敬遠している。子供じみた、情けない感傷でしかない。 少し頑なになりすぎていたと、トキヤはここまでの己を反省した。人の好意すら素直に受け取れないのでは、アイドルどころか人として問題ありだ。 自分を守ろうとしてばかりで、彼の何を見ようともしなかった。恐らく二重生活をするにあたり、緊張と不安が大きく膨れ上がっていたのだろう。近付きすぎず、遠すぎず、ちょうどいい距離を見つければいい。 「……おやすみなさい」 まだ本人に面と向かって言えることはできず、トキヤは手の中のペットボトルにそう呟いた。 その挨拶が常となるには、あともう少し時間がかかることになる。 |