短い間隔で、小さな水音が部屋に響く。触れ合った唇は温かいを越えて熱く、密着した体もほんのりと熱い。
もう幾度も交わしているのに、心臓はドキドキと高鳴り、握り締めた手には汗が浮いた。
「ん……おと、や……」
「もうちょっと……」
ね、と吐息で囁き、音也は再びトキヤの唇を塞いだ。抱き寄せてくる腕をはねのけることはできず、トキヤはそれを受け入れる。
滑り込んだ舌はぬるりと歯列を撫で、内頬を荒らした。じんとした甘い痺れが体の内側を走り、トキヤは小さく震えて音也の胸辺りを握る。
キスなんて、HAYATOとして出た映画やドラマで何度もした。あまりに深いものはアイドルという立場上NGで、軽く触れるものがほとんどだったが、経験がないわけではない。それでも、こんな風に緊張したり、体が熱く溶けそうになることはなかった。
もちろん映画やドラマでは演技なのだから当然だ。中には恋人同士の役を演じた俳優たちが本当に恋に落ちる事例もあるが、そこまで感情移入したことはない。
好きな相手とのキスは、音也が初めてだ。こんな風に、一度してしまったら離れがたくなるほどのキスは、初めてだ。
もう寝ようとしていた時間は過ぎている。でも、やめなければと思っているのに音也を押し返すことができない。
今日もHAYATOの仕事があって、帰宅したのは遅くて、それでも自分を待って起きていた彼を無碍にするのは気が引けたし、正直なところを白状すれば、トキヤ自身もそれを望んでいた。
それに、キス止まりの関係で留めている罪悪感もある。
人が聞けば驚くかもしれないが、付き合い初めて三ヶ月ほど経つのに、自分たちは未だキスだけの関係だった。しばらくはそうして欲しい、と言ったのはトキヤだ。
キス以上の関係になりたくないわけではない。先に進むのが怖くないと言えば嘘になるが、それが大きな理由ではない。
HAYATOとしての仕事がほぼ毎日入っている現状で、体に負荷のかかることは避けたかったからだ。
男同士のセックスがどんなものなのかくらい、自分だって知っている。それが相当ハードなものだ、ということもだ。
トキヤと同様、音也も誰かを好きになったのは初めてらしく、当然男とのセックス経験などありはしない。そんな二人が事に及んだとして、スムーズにいくとは思えないし、受け入れる側のこちらの体調が崩れる恐れもある。
だから、確実に次の日が休みだとわかっていなければ、するのは難しい。そう判断したのだ。
無論音也は、トキヤがHAYATO本人だなんて知らない。言っていないし、これからも言えないだろう。忙しいのは、事情があってアルバイトをしているから、ということになってる。
隠していることに負い目はあれども、これは一時の感情で明かしていいことではない。言えるとしたら、無事「一ノ瀬トキヤ」としてデビューが決まり、HAYATOを辞めると決めたときだ。
本来なら、それまで彼の想いを受け入れるべきではなかったのだと思う。好きだという想いを、抑えておくべきだった。
そう思って、好きだという彼の言葉をなかったことにしたこともある。それでも、音也は自分を諦めないでいてくれた。ずっと好きだと言ってくれた。
それを振り払うにはもう彼を好きになりすぎていて、恋愛禁止という学園のルールさえ頭から吹き飛んだ。
早計だったと、浅はかだったと、思わなかったわけではない。けれど、それよりも遙かに幸せで温かな気持ちを、時間を、得ることができた。だから恋人同士になったことに後悔はない。
できることなら、トキヤだって早く音也と繋がりたいのだ。キスだけのもどかしい関係ではなく、もっと深いところで繋がりたい。ただ、それにはもう少し時間が必要だった。
「音也、明日も……ん、ぁ……」
早いんです、と言いたくとも、絡んだ舌が言葉を奪う。くちゅりと音を立てて中をかき回してから、音也はとろりと唾液を流した。じわりと広がる体液にぞくりとしながら、トキヤはこくりと飲み下す。
こうして口付けを重ね、彼の一部を受け入れるごとに、内側から浸食されていく錯覚がトキヤを襲った。
それは恐怖でも嫌悪でもない。快感とも違うけれど、自分の中で彼と自分が混ざり合い染みていく感覚は、どこか心地よかった。
もっと、と思ってしまいそうになる心に、トキヤはどうにかブレーキをかける。
「いい加減にしないと、約束を反故にしますよ」
「えっそれは駄目! 待って待って」
潤んだ目を見られるのが恥ずかしく、目を逸らして早口で言うと、音也は飛び上がる勢いで驚き唇を離した。唇は離したが、腕はがっちりとトキヤをホールドしている。
「明日も朝が早いと言ったはずです。寝不足でミスなんてできません。あなたはそんな無様を私にさせたいんですか、」
「う……ごめんなさい。そんなつもりは全然ないんだけど……トキヤが可愛いからつい」
謝ったそばからへらりと笑い、音也はトキヤの口端にちゅっと触れるキスを落とした。無理矢理に顔を引き締めていたのに、それだけでふわりとまた頬が熱くなる。それに聡く気付いたのか、音也はぎゅっと抱く腕を強くして甘えた声を出した。
「ねぇトキヤ、何もしないから、一緒に寝ちゃ駄目?」
「駄目です」
「そんな即答しなくても……」
取り付く島のないトキヤの答えに、音也はさすがにしょんぼりと肩を落とした。
音也は自分と違い感情表現が素直なせいか、こうして見るからに落胆した様子を見せられると胸が痛む。だが、ここで情に流されてはまた痛い目を見るだけだ。
以前一緒に寝たいという音也に応じた際、全く熟睡できなかったという結果に終わった。
音也の寝相がなかなかに元気すぎた、というのもあるが、時折抱き枕のように抱きついてきたり、寝言でトキヤの名を呼んだり、ぴったりとくっついた体や間近にある彼の匂いに緊張が解けず、寝付くのにひどく時間がかかったのだ。まだあの距離には、慣れることができない。
「私はリラックスして熟睡したいんです。それに……だから、それは今度、と……」
「あ、そっか。そうだね」
目を伏せて言葉を濁すと、音也はそうだった、というように嬉しそうに頬を緩ませた。
三ヶ月間、キスだけの関係を続けてきたが、あと少しでそれも終わる。終わる予定だ。
二週間後の土曜はようやくもらえた丸一日のオフで、その前夜になら、という話をしたのは先月のことだった。約束とは、そのことだ。
音也にとって、それを反故にされることほど今辛いことはないだろう。そうでなくても、実は約束をしておいて急な仕事が入りお流れになったことが二度ほどある。トキヤとしても、今度こそはと思っていた。
「じゃあ、あと一回だけ。そしたら大人しく自分のベッドに戻るから」
「……一回だけですよ」
その一回がどれだけ長いのかわかっていて応じてしまうあたり、それだけ彼を好きなのだと実感する。
古典や純文学、ミステリーなど多種多様の本を読んできているが、どんな小説でも、大概恋とは理性を簡単に突き崩してしまう厄介ものとして書かれていた。そしてそれはそう書かれるほどには事実なのだと思い知る。
厄介で、けれどとても甘美な、幸せな、一度得てしまえば捨てることの難しい感情だ。大事にしたい。彼の想いも、この関係も、大切にしたい。
そのために慎重になるのは仕方ないのだと、今日最後のキスを受け止めながらトキヤは数え切れないほど繰り返したそれを自分に言い聞かせた。
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