恋の歌を君と歌おう<前編>(途中部分抜粋1)

まだ春の訪れは少し遠い、三月になりたての寒い日のことだった。
つい先月バレンタインデーがあったばかりで、互いにチョコレートを贈り合い、その日だけは甘いものを食べてもいいなんて笑って、半分ずつそのチョコレートを食べるという、恥ずかしくも温かい時間を過ごしたばかりだ。
けれど今は、そんな空気はどこにもない。外気と同じくらい……いや、それ以上にひんやりとした空気が辺りを占め、心までもがその寒さに凍えている。
それはきっと、彼も同じだろう。いや、自分よりも彼のほうが、寒さと痛みを感じているはずだ。
いつも笑顔を絶やさない、明るく元気な表情ばかりの音也のそれは、ぎこちなく固まり、信じられないものを見聞きしたように色を失くしていた。そうさせたのは、トキヤだ。
「ごめんトキヤ。何……言ってるのかよく……」
「では、もう一度言いましょう」
一年近く一緒に過ごした部屋を、こうも居心地悪く感じたのは初めてだろう。
最初の頃こそ音也の落ち着きのなさや騒々しさに辟易していたものだが、こんな風に息苦しく、胸が痛むようなものではなかった。まだ友人でもなく、ルームメイトという言葉すらも形だけでしか受け入れていなかったから、そこまでの感情を抱かなかったのだ。
だが、今は違う。自分たちはルームメイトで、友人で、ライバルで、恋人同士、だった。恋人としての日々を、半年ほど彼と過ごした。だから、今トキヤが口にした言葉に音也が動揺するのは当然なのだ。
「あなたと別れたい。恋人同士という関係を、やめにしたいんです。……もう続けられないと、あなたもわかっているでしょう」
「……どうして……なんで急に? 続けられないなんてそんなことない。そりゃ……HAYATOのことは驚いたけど……でも……」
心底意味が分からないというように、音也は戸惑った顔で言葉を途切れさせた。突然すぎると思うのは当然だ。つい最近まで、自分たちには何の問題もなかった。甘く柔らかな空間であるここで、穏やかに恋人同士の日々を送っていた。それなのに何故、と音也の瞳は訴えている。
こんな事態になってもそう思える彼の強さが、想いが、本当は嬉しかった。嬉しくて、言った全てを撤回したいくらいだ。けれどそれはできない。してはならない。初めから……彼と付き合うと決めた時から、この別れも決めていたのだ。
HAYATOだと明かした後は、音也と別れる、と。
早 乙女学園にHAYATOの双子の弟だと偽って入学したのは、一ノ瀬トキヤとしてデビューしたいが為だった。HAYATOというキャラクターはトキヤ自身と はあまりにかけ離れていて、それなのに周りはHAYATOを求め、マネージャーや事務所の人間までもトキヤという個人ではなくHAYATOとして扱うよう になった。そこに一ノ瀬トキヤは最早存在せず、その環境はトキヤの心を、精神を圧迫した。
バラエティ重視の仕事、俳優業でもHAYATOのキャラクターに合わせた役ばかり、何より歌を歌いたいとアイドルになったトキヤにとって、その未来は夢と遠く隔たり、自分自身すら見失いそうになっていた。
そんなトキヤに希望の光を与えてくれたのがシャイニング早乙女だ。一からやり直したいのなら学園に来ないかと、子役時代に世話になった彼は言ってくれた。
確実にデビューできるわけではない。HAYATOだということを隠さなければならないし、仕事と学業を両立させる二重生活も強いられる。
それでも、その時のトキヤにとって、それは救いの手でしかなかった。脱却できる可能性があるのなら賭けたい。いや、なんとしてもその光を掴んでみせる。そう決心して、早乙女学園に入学したのだ。
そ うして一年近くが経ち、まだ確実とは言えずとも、一ノ瀬トキヤとしてシャイニング事務所に所属できる自信をトキヤは得た。卒業オーディションに合格するこ とが条件だが、もし駄目だったとしても、もうHAYATOにしがみつくことはしない。ただの一ノ瀬トキヤとしてオーディションに望みたい。その決心がつ き、今日トキヤは、HAYATOとして出演した番組で「HAYATO」をやめる、と告白してきた。
学園の誰にも明かしていないし、音也にも話していない。だから今日の番組を見て、音也は驚いたはずだ。嘘をつかれていたと、騙されていたと、怒ってもおかしくない。
それなのに、彼はいつも通りこの部屋でトキヤを迎え入れた。笑顔で「おかえり」と言ってくれた。
それがどんなに嬉しく、そして苦しいことだったか、彼にはわからないだろう。だからこそ、続けられないのだ。音也のその温かい尊い想いを受け止める資格を、自分は持っていない。
ずっとずっと裏切り続け、騙し、与えてくれる想いに甘えてきた。これ以上甘えるわけにはいかない。これ以上、赦されてはならない。だから、この日が来たら終わりにすると決めていた。どれほど好きでも、好きになってしまっても、最初から決めていたのだ。
ぎゅっと手を握りしめ、トキヤはまだ動揺している音也を静かに見つめた。一度目を閉じてから、今日まで幾度も頭の中で繰り返してきた残酷な台詞を口にする。
「私はあなたを利用していたんです」
「え……」
「HAYATOを辞めて、一ノ瀬トキヤとしてデビューしたい。その一念で、私はここへ入りました。ですが、技術はともかくお前の歌にはハートがないと言われ続けた。その逆に、あなたには技術が足りなくともハートがあると言われていた。あなたは私にないものを、持っていた」
「……」
「だから、あなたといたらそれを得ることができるのではないかと……。恋人という、一番近しい場所にいれば理解することができるのではないかと、そう思って……あなたと付き合うことを承諾したんです」
合わせた視線を逸らすことはせず、トキヤは揺るがぬ声でそれを明かした。
利 用していたことは、嘘ではない。それが一番ではなかったけれど、彼と共にいれば明るく温かな、聴く人の心に響く歌を歌えるようになるのではないかと、そう 思っていた。好きだと言われて戸惑い、拒否しようと思う裏でそんな打算が働いたのは事実だ。そしてきっと、それは成功した。成功してしまった。
恋人として音也と一緒にいるうちに、頑なだった心はゆっくりと溶け、熱を帯び、人を想う心を、想われる幸せを、手に入れた。だからこそ、今の自分がいる。HAYATOだったと明かすことのできる勇気を得て、一ノ瀬トキヤとしてデビューできる自信を、得た。
そうとなれば、もうこれ以上続ける意味はない。どんなに胸が痛くても、苦しくてもだ。皮肉な結果だが、これこそハートを得た証拠とも言えるだろう。
こんな人間になど、失望してしまえばいい。冷血で利己主義で、情のない人間だと失望して、嫌ってくれて構わない。そのためなら、どんなにひどい言葉でも口にできる。
「嘘……。嘘だ。そんなの……そんな……」
「嘘ではありません。本当のことです。だから、キス以上の関係になるのを拒んだんですよ。恋人ごっこに、体の繋がりは必要ない」
「――」
呆然として、音也は言葉を失っていた。何か言おうとして、けれど言えず、ぐっと顔を歪め唇を噛みしめる。
キス以上を拒んだのは事実だ。それの裏付けとしては納得できてしまう理由だからこそ、音也は何も言えないのだろう。
音也と付き合うことを受け入れた時、その条件を出したのはトキヤだった。早乙女学園は恋愛禁止で、隠れて付き合っても知られたら即退学になる。だから節度のある付き合いにしようと、最もらしい言い訳で、トキヤはキスまでという約束をした。
そ れは半分本当で、半分は嘘だ。セックスをするようになって体まで繋げてしまえば、心は弱く揺れ惑うだろう。HAYATOであることも自ら告白してしまうか もしれない。それに、そうなれば知られたくないことも知られてしまう恐れがある。それだけは避けたい。だからトキヤは、音也との付き合いをキスまでに止め た。
嫌だったわけでは決してない。できることなら、そんな関係にだってなりたかった。けれどできなかったのだ。それだけは、できなかった。そんな資格を、自分は持っていない。
恋人ごっこという言葉がどれだけ彼の心を傷付けているかなんて、想像しなくてもわかった。
好きだよと囁いて、それに返したトキヤの言葉も、初めて唇を触れ合わせた日のことも、ただ抱き合って眠った日のことも、全て否定されたのだ。言えることなんて、彼の頭には浮かばないだろう。それだけの言葉を、自分は選んでいる。
「私 は……あなたが羨ましかった。HAYATOそのもののように明るくまっすぐで……技術などなくても人の心を温かくする歌を歌える……。私に足りないもの を、全て持っている。だから、それを手に入れたいと望んだ。ただ、それだけでした。そうして私はあなたを利用して……それと同時に、騙してもいた。 HAYATOであることを黙り……嘘を、ついていた。あなたを二重に裏切っていたんです」
「裏切り、なんて……そんなこと……」
「いいえ。それは事実です。だから今、別れようと言っている。これ以上、あなたと付き合う意味はない。元々、学園にいる間だけのつもりでした」
「……」
「あなたといたおかげで……私は持ち得なかったハートを、一ノ瀬トキヤとしてのアイドルへの道を掴めた。そのことには感謝しています」
にっこりと、これ以上ないという穏やかで優しい完璧な笑みを、トキヤは浮かべた。動けずに立ち尽くしている音也に歩み寄り、自ら手を差し出す。
音也の手はだらんと力なく下ろされぴくりともしなかったが、トキヤは構わずその手を握った。
自 分より少し大きくて温かい、ごつごつとした少年のそのてのひらを、トキヤは好きだった。手のひらだけではない。見た目より柔らかな髪も、明るい色のきらき らとした瞳も、付き合ううちに知った優しいキスや激しいキス、抱き締めてくる腕の強さも、彼の持つ何もかもを、トキヤは好きだった。
今でも好きだ。
震えそうになる声を抑え、崩れそうになる表情を引き締めても、心だけは嘘をつけない。ぎしぎしと軋んで、ぎゅっと締め付けられ、痛みが全身に冷えた熱を放つ。それでもこれは、決定事項だった。翻すことはできない。
「……ありがとう、音也。これからはよきライバルとして、共にトップアイドルを目指しましょう」
やんわりと手を握っても、音也の手は反応しなかった。少し冷えた手のひらは、彼の心を表している。トキヤを見つめながらも見ていない瞳に、光はない。
けれどきっと、音也なら大丈夫だ。自分とは違い、自ら光を発し皆を照らす太陽である彼なら、優しい心の彼なら、自分のことなど忘れてまた前を目指し歩んでいける。
「卒業まであと僅かな間ですが、それまではルームメイトとしてよろしくお願いします」
では、早乙女さんに呼ばれているので、と続け、トキヤは離し難い音也の手を解放した。一瞬握り返すような気配がしたが、それは単なる未練だったのかもしれない。
音也の脇をすり抜け、部屋を出ていくまで、彼からは一言も発されなかった。パタン、というドアを閉める無機質な音だけが、トキヤの耳に届く。

そうして、初めての恋は終わった。とても呆気なく、けれど苦しい、恋の終わりだった。
もう二度と彼と深く関わることはないだろうと、その時は思っていた。

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